第10章 3
「橘さん――?」
彼は微笑んだままだ。人形のように感情を見せず、ただ過去の出来事だけを俺に語っている。
「彼女には別に好きな人がいたんだ。俺はそのことに少しも気付かなくて、彼女に打ち明けられる直前まで、暢気に披露宴の挨拶を考えていた」
「あんたの方から、結婚をやめたの?」
「ああ。彼女に別れを告げた後、辞表を出して社長に土下座した。即刻クビを切られたよ。お前に拾われた日だ」
「……何であんたが悪者になってんの? 先に男作ったの彼女の方だろ?」
「二年だ、星夜」
橘の瞳が鋭くなる。人形じみた微笑みはいつしか消えていた。
「付き合っていたそれだけの時間、俺はずっと彼女を苦しめたことになる」
「意味不明。分かりやすく言ってよ」
「――俺と見合いをする前から、彼女はその男のことが好きだったんだ。社長に反対されて無理矢理別れさせられたらしい。俺は何も知らずに彼女にプロポーズして、休みのたびに会って彼女を抱いていた。分かるか? 強姦と同じだ」
「馬鹿か、あんたは。全然違うよ!」
「好きでもない奴に抱かれるとは、そういうことだ」
「橘さん……っ」
同じ言葉を橘は俺にも言ったことがある。あの時に見せていた泣き顔は、今の彼にはない。彼は冷静なのに、何故だか俺の方が感情を揺さぶられて、きつく奥歯を噛んでいた。
「彼女に償いたくて婚約を破棄した。最後まで泣かせた。ひどい男だ」
「社長には? 本当のこと言ったんだろ?」
「言っていたら解雇されないよ」
「――そんなの、ずるいよ。リストラでも何でもないじゃん。償うのは彼女の方だろ。あんたは悪くない!」
左右に触れる橘の顔を、殴ってやりたくなった。俺は彼がゴミの山に埋もれて倒れていたことを知っている。社章を捨てられなくて、それを掌に握り締めたままだったことも、泣いていたことも知っている。
簡単に割り切れるはずがない。彼には会社を去る理由も落ち度もないのだから。
「彼女と付き合っている間、野心や打算がなかったわけじゃない。実際、この年で営業本部長なんて不相応なポストをもらっていた」
「そんなの――」
橘がただの平凡な社員なら、そもそも社長令嬢と見合いをするだろうか。実社会と疎遠な元ホストの頭でも分かる。橘に人並み以上の才覚があったからこそ、婚約にまで進んだとしか考えられない。
「相手が社長の娘なら、誰だって少しは野心くらい持つだろ。エリートってやつ? あんたは仕事だけじゃなく、運まで手に入れてたんだ。もったいない、何で捨てたんだよ」
「人の気持ちを踏みにじってまで、上に立ちたくない」
自分を罰したんだ、と橘は続けた。言葉を失って、俺はしばらく放心した。
「――呆れた――」
こんな人間は知らない。今まで一度も見たことがない。橘は間違いなく聖人で、そして途方もなく愚かだ。心根のひねくれた俺の目には、お人よしの大馬鹿者に見える。
「腹、立たないのかよ」
「怒ったさ。もちろん。最後に会社を出た後、どうにでもなれと思ったよ」
「彼女のことが好きだったんだろ?」
「ああ。いい家庭を築けると思ってた」
「ほらみろ。――後悔してんじゃないか」
橘はまた微笑んだ。正確には、微笑もうとした。きゅっと噛み締めた彼の唇がもどかしい。
辞表を出すより、橘には他にするべきことがあったはずだ。せめて自身の立場を守るくらいは、うまく立ち回ってもよかったはずだ。
「くそっ!」
車道と歩道を分ける縁石を思い切り蹴りつける。一度では足りなくて、何度も蹴った。ブーツの底がへこむほど。
「星夜」
「ムカつくよ。あんたにムカつく!」
「……怒るなよ。怪我をするぞ」
「こんな馬鹿、見たことないよ」
最後にガン、と大きく蹴って、肩で息をしながら雑居ビルと電線だらけの狭い空を見上げた。橘を馬鹿としか呼べない自分が、ひどくささくれた卑小な人間に思える。彼は冬晴れの空よりも、もっと高いところからこの街へ落ちてきたのだ。




