表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
眩い星夜  作者: コギン
42/77

第10章 3

「橘さん――?」

 彼は微笑んだままだ。人形のように感情を見せず、ただ過去の出来事だけを俺に語っている。

「彼女には別に好きな人がいたんだ。俺はそのことに少しも気付かなくて、彼女に打ち明けられる直前まで、暢気に披露宴の挨拶を考えていた」

「あんたの方から、結婚をやめたの?」

「ああ。彼女に別れを告げた後、辞表を出して社長に土下座した。即刻クビを切られたよ。お前に拾われた日だ」

「……何であんたが悪者になってんの? 先に男作ったの彼女の方だろ?」

「二年だ、星夜」

 橘の瞳が鋭くなる。人形じみた微笑みはいつしか消えていた。

「付き合っていたそれだけの時間、俺はずっと彼女を苦しめたことになる」

「意味不明。分かりやすく言ってよ」

「――俺と見合いをする前から、彼女はその男のことが好きだったんだ。社長に反対されて無理矢理別れさせられたらしい。俺は何も知らずに彼女にプロポーズして、休みのたびに会って彼女を抱いていた。分かるか? 強姦と同じだ」

「馬鹿か、あんたは。全然違うよ!」

「好きでもない奴に抱かれるとは、そういうことだ」

「橘さん……っ」

 同じ言葉を橘は俺にも言ったことがある。あの時に見せていた泣き顔は、今の彼にはない。彼は冷静なのに、何故だか俺の方が感情を揺さぶられて、きつく奥歯を噛んでいた。

「彼女に償いたくて婚約を破棄した。最後まで泣かせた。ひどい男だ」

「社長には? 本当のこと言ったんだろ?」

「言っていたら解雇されないよ」

「――そんなの、ずるいよ。リストラでも何でもないじゃん。償うのは彼女の方だろ。あんたは悪くない!」

 左右に触れる橘の顔を、殴ってやりたくなった。俺は彼がゴミの山に埋もれて倒れていたことを知っている。社章を捨てられなくて、それを掌に握り締めたままだったことも、泣いていたことも知っている。

 簡単に割り切れるはずがない。彼には会社を去る理由も落ち度もないのだから。

「彼女と付き合っている間、野心や打算がなかったわけじゃない。実際、この年で営業本部長なんて不相応なポストをもらっていた」

「そんなの――」

 橘がただの平凡な社員なら、そもそも社長令嬢と見合いをするだろうか。実社会と疎遠な元ホストの頭でも分かる。橘に人並み以上の才覚があったからこそ、婚約にまで進んだとしか考えられない。

「相手が社長の娘なら、誰だって少しは野心くらい持つだろ。エリートってやつ? あんたは仕事だけじゃなく、運まで手に入れてたんだ。もったいない、何で捨てたんだよ」

「人の気持ちを踏みにじってまで、上に立ちたくない」

 自分を罰したんだ、と橘は続けた。言葉を失って、俺はしばらく放心した。

「――呆れた――」

 こんな人間は知らない。今まで一度も見たことがない。橘は間違いなく聖人で、そして途方もなく愚かだ。心根のひねくれた俺の目には、お人よしの大馬鹿者に見える。

「腹、立たないのかよ」

「怒ったさ。もちろん。最後に会社を出た後、どうにでもなれと思ったよ」

「彼女のことが好きだったんだろ?」

「ああ。いい家庭を築けると思ってた」

「ほらみろ。――後悔してんじゃないか」

 橘はまた微笑んだ。正確には、微笑もうとした。きゅっと噛み締めた彼の唇がもどかしい。

 辞表を出すより、橘には他にするべきことがあったはずだ。せめて自身の立場を守るくらいは、うまく立ち回ってもよかったはずだ。

「くそっ!」

 車道と歩道を分ける縁石を思い切り蹴りつける。一度では足りなくて、何度も蹴った。ブーツの底がへこむほど。

「星夜」

「ムカつくよ。あんたにムカつく!」

「……怒るなよ。怪我をするぞ」

「こんな馬鹿、見たことないよ」

 最後にガン、と大きく蹴って、肩で息をしながら雑居ビルと電線だらけの狭い空を見上げた。橘を馬鹿としか呼べない自分が、ひどくささくれた卑小な人間に思える。彼は冬晴れの空よりも、もっと高いところからこの街へ落ちてきたのだ。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ