第10章 2
「経費経費。オーナーにも了承もらってるから」
「本当に何から何までありがとう。いつかお返しをするよ」
「お堅い奴だなあ。甘えられる時は素直に甘えときゃいいんだって」
足休めに入ったカフェで、赤字を出さなくてはならない店の事情を説明すると、橘はなるほど、と頷いた。車のない通りに面したオープンテラスの席で、コーヒーカップを片手に長い足を組んだ彼のことを、客や店員がちらちら見ている。
「節税対策か。今飲んでるコーヒーも」
「そうだよ。橘さんはいつもブレンドだね」
「単純に好きなんだ。星夜の自宅で使っているグァテマラの豆は、とてもいいやつだよ」
「へえ、たまたま買ったやつだけど、そういうのに詳しいの?」
「勤めていた頃、コーヒー豆を扱っていたことがあって」
橘が仕事の話をしたことは、今までなかった。こうして口に出せるようになった分だけ、リストラの傷が癒えたのかもしれない。
「ブラジルやハワイ、稀少な産地も回ったよ。コーヒー豆だけじゃない。社の方針で入社して何年間かは、ありとあらゆる現場を経験するんだ。日本国内にいる時間の方が短かったかもしれない。海外で合弁会社を興したり、忙しかったな」
「ニッポンのビジネスマンって感じ?」
「間違ってはいないな。……仕事は好きだったよ。睡眠時間が足りなくても平気だった。水泳をやっていたから体力には自信があるし」
最後は軽い言葉ではぐらかされた気がした。どこの会社に勤めていたのか、彼は詳しいことは話さない。
平日の昼間は会社員たちが新宿にたくさん溢れている。隣のテーブルの客も、モバイルパソコンを開いてしきりにビジネス文書を打ち込んでいる。
キーボードを叩く、カタカタと繰り返す音声が耳について仕方ない。ふと気付くと、橘はカップを持ったまま無言になっていた。物思いに沈んでいるようにも見える。
「――出よう。橘さん」
「もういいのか? 歩き疲れただろ」
「ううん」
自分のカプチーノは半分も飲まなかった。橘をせき立てるようにしてカフェを後にする。
「次は雑貨のショップへ行こう。近くにあるから」
「まだ買うのか?」
「橘さんのマグカップ。今日の買い物のメインだよ。いつまでも湯飲みじゃ色気ないだろ」
タイピングの音が耳に残っていて不快だった。まるで仕事を失った橘を責めているような、無機質な響きに思えた。
どうして彼はリストラに遭ったんだろう。仕事が好きだと口にするくらいだ、きっと熱心な社員だっただろうに。俺は彼のことをよく知らない。これまで知ろうともしなかった。
「……星夜、ありがとう」
唐突な声に思わず立ち止まった。車が俺たちのすぐそばを通り過ぎる。
「さっき、俺に気を遣っただろ」
「そんなんじゃないよ」
カフェにマナーの悪い客がいただけだ。始終キーボードを叩いて、うるさくして俺を不快にさせた。
「ああいうの、苦手なんだ。こっちは寛ぎたくてカフェにいるのに、仕事したいなら遠くの席でやってくれって思う」
「じゃあ、俺もきっと嫌われていたな」
「え?」
「俺も同じタイプだったよ。……星夜、俺は自分の都合でリストラになったんだ。だから会社を辞めたことは後悔してない」
自主退職という意味だろうか。まっとうな会社員の仁義や建前はよく分からない。
「泥酔してゴミ溜めで気絶してたのに? ショックがでかかったんじゃないの?」
「割り切れなかった部分は確かにあるさ。やりかけの仕事もあったしな」
そう言って橘は笑う。穏やかなその表情に蓋をされて、彼の過去が見えない。笑顔の向こうに何か秘密が隠されているような気がするのに。
「それって――」
言いかけて、俺は途中でやめた。余計な詮索だ。雨の夜に酔い潰れていた橘を、俺はただ拾っただけなのだから、彼が隠していることに無遠慮に踏み込むべきじゃない。
「ごめん。何でもない」
「ううん。今も俺に気を遣ったな」
橘に考えを見透かされていた。はっとした俺に、彼はもう一度微笑みかけた。
「――社長のお嬢さんとの婚約を破棄した」
淡々と彼は言った。あまりにも淡々とし過ぎていたから、自分の耳を疑ってしまう。
「見合いをして、二年付き合った。年が明けたら結婚するはずだった」




