第2章 2
十七歳の夏がやってくる。セミが鳴き始めた夏休み目前のある日、秋川から放課後の補習を言い渡された。
「はいみんな、下敷きで仰ぐのは特別に許可するからね。授業では禁止だよ」
「暑い。死ぬ。数学意味分かんね」
「俺もー」
数学の期末テストで赤点スレスレだった生徒だけが集められて、課題プリントを全問正解した順に解放される。ただでさえ蒸し暑くて怠いのに、数式が少しも頭に入ってこなくて、教室に俺一人だけ取り残されてしまった。
「難しい単元だったかな?」
「数学、あんまり得意じゃなくて」
「基礎はちゃんと理解できていると思うよ。とりあえず最初から解き直してみようか。分からないところは質問して」
教室に秋川と俺の声が響いている。静けさがあの日の満員電車と似ていて、俺の胸の奥が奇妙にざわついた。秋川は目の前の席に座って、他の生徒のプリントを眺めている。
ネクタイを緩めた首元や、シャツの袖をまくった逞しい秋川の腕が、俺の視界の大部分を占めていた。痩せ気味の高校生とは違う、筋肉がしっかりした大人の男の体。陸上部の顧問でもある彼から仄かに漂ってくるのは、汗に混じったボディコロンの香りだった。
「どうしたの? 質問はない?」
「え、えっと……」
気付かないうちに秋川を見つめてしまっていた。慌ててプリントに目を戻しても、コロンの香りがしつこく鼻に残っている。気になって仕方ないそれをごまかすために、俺は何度も指でペンを回した。
「集中できないようだね」
椅子の脚を軋ませて、秋川は俺の隣の席に座り直した。途端に強くなった彼の香りに、息が詰まりそうだった。
「何か悩んでいることでもあるのかな?」
「別に、何も、ないですけど」
心臓が、ずっと乱れた音を立てている。じいじいと鳴くセミの声と相まって、教室に熱気をこもらせていく。酸欠したように眩暈を感じていると、秋川は俺の手を握ってきた。
「せ、先生?」
「静かに。先生は、君と落ち着いて話がしたいんだ」
秋川は、俺の手をさらに強く握った。彼の意図が分からずに、俺は困惑しながら、懸命に冷静になろうとした。
「手を離してください」
「君は掌にこんなに汗をかいていて、先生の耳にも聞こえるくらい、鼓動も乱れている。何故そうなるのか、君は君自身のことを分かっているかい?」
俺の体の異変を、秋川は的確に言い当てた。すぐに否定しようとしても、気持ちが焦ってますます汗が噴き出してくる。
「そ……そんなこと、どうでもいいです。離して。先生、おかしいですよ」
秋川の指が、俺の指に深く絡んで離してくれない。彼のコロンの香りが濃くなった気がして、息が苦しかった。
「先生のことを変に思うのなら、手を振り解けばいい。君は何故そうしないんだ?」
「え……っ」
「君の迷いを晴らしてあげようか」
授業の時よりも、もっと優しい顔をして、秋川は微笑んだ。思考停止している俺の頭の中を、彼の声が掻き乱す。
「君はゲイだろう」
一瞬、目の前が真っ白になった。自分の体が震えているのが分かった。
「隠さなくてもいいんだよ。君のことを見ていて、そうじゃないかとずっと思っていたんだ」
「違います……っ」
俺は咄嗟に言い返した。秘密を守るために嘘をついた。
ゲイだというだけで嫌われて、理不尽に扱われる人の話は、ネットの世界にたくさん溢れている。クラス担任の秋川にそんな扱いをされたらと、想像するだけで怖かった。
「誤解しないでほしいな。先生は君を責めているんじゃないんだ」
まるで迷子をあやすような、柔らかい口調で秋川は言った。体じゅうを緊張させていた俺は、震えながら彼を見た。
「君は今まで、つらい想いをしてきたんじゃないか?」
「っ……」
「安心していいんだよ。君と同じ悩みを持つ人はたくさんいる。先生は君の味方だよ」
秋川に握り締められたままの俺の手が、火がついたように熱かった。彼の優しい言葉が俺の心の奥の方に沁みてくる。何年も抱えていた秘密に、初めて光が射した気がした。
「先生は、大切な生徒である君を、ほうっておけないだけなんだ」
俺に味方ができるなんて、まるで夢を見ているようだった。俺のことを理解してくれる人が、やっと現れた。
「先生、俺は、……俺は」
それでもなお、秘密は俺の口を閉ざそうとする。すると、秋川は長い腕を伸ばしてきて、俺の体を抱き寄せた。