第9章 6
「橘さん、あんたの本音は分かってる。ゲイを抱いたから、ショックなんだろ」
「……え……?」
「泣くほど嫌なんだろ。正直に言えよ。ハンストみたいに何も食わないで、沐浴でもしてるつもりかよ。解雇された会社員はそんなにお綺麗なのかよ」
「星夜、違う。俺は」
「あんたは俺に欲情したんだよ。女にするみたいに俺の中で射精したんだ。それだけは認めろよ。俺だって……つらかったよ。自分のことを信じたくなかった。初めて好きになった相手が男で、女を好きにはなれなくて、世界にたった一人取り残された気がした。どうして俺はみんなと違うんだろうって、長いこと、自分を許せなかったよ」
俺はスウェットから指を離して、涙で濡れたままの橘の頬を両手で包んだ。
「男でも、女でも、誰を抱いてもいいから、性欲までないことにするなよ。……どうしようもないことを、否定するなよ」
橘が、はっとしたような顔で俺を見上げた。
「泥酔して男を抱いて、それが何だっていうんだよ。抱かれた方の俺は何とも思ってない」
橘の震えが伝わってきても、俺は手を離す気にならなかった。溢れ出した俺の言葉は、止めどない大河のように、ただ彼へと向かっていく。
「橘さん、泣いたって腹はふくれないよ。あんたをクビにした会社が、メシを食わせてくれんのかよ。自分でちゃんと食べろよ。あったまれよ。――かわいそうだ。自分のことをいじめないで、もっと大事にしなよ」
橘へ告げた言葉は、かつての俺が誰かに言ってほしかった言葉だ。この街へ辿り着くまで、俺がずっと求めていたものだ。
「自分で自分を殺すなよ。あんたは生きていていいんだよ、橘さん」
俺の両手の中にある橘の顔が、過去の自分と重なって見える。周りの人間から突き放された、愛されなかったあの頃の自分を、俺は今やっと温めてやれる。
「息継ぎの仕方なら、俺が教えてあげる。酸素を吸うだけじゃだめだ。苦しくならないように吐き出すんだ」
「何故だ? 俺は星夜に、ひどいことをしたのに」
「ひどいことって何だよ。ナイフで刺したの? 殴った? 傷なんか俺にはどこにもない」
「……分からない。お前のことが分からないよ。どうしてお前は、そんなに俺に優しくできるんだ」
俺は自分を優しい人間だと思ったことはない。でも、目の前で苦しんでいる彼をほうっておけない。衝動的な気持ちが俺をせっついている。
「俺も、あんたみたいに苦しんだことがあるから。その時に、弱くて立ち竦んでいた俺のことを、まっこうから受け止めてくれた人がいた」
俺はオーナーのことを思い浮かべた。オーナーが俺を救ってくれたから、俺はこの街で生きていられた。
「今、あんたの目の前には俺がいる。俺があんたを受け止めてやるよ」
「星夜――」
橘は俺を呼んだ。石のように動かなかった彼の手が、馬乗りの俺の肩を掴んだ。
「教えてくれないか」
「何」
「お前は今夜本当に、医者の男に体を売ってきたのか?」
「説教かよ」
「お前は嘘をついているんじゃないのか?」
橘の声が、俺の耳の至近距離から聞こえる。肩を抱き寄せられて、俺はそのまま彼の胸に凭れた。
「星夜、自虐的なことをしないでくれ」
「……あんたがそれを言うのか」
「質問に答えてくれたら、俺も反省する。ちゃんと食事もするし、お前に心配をかけないと約束する」
耳の下で橘の心臓が動く音が聞こえる。泣いていた彼とは思えないくらい、しっかりと刻むそのリズムは、俺の言葉が彼に届いたからだと信じたい。
「嘘……だよ」
広い胸に体重を預けて、俺は大きく息を吐き出した。
「嘘だと思ってる方が、あんたもいいんじゃないの。ウリのゲイと、一緒にいたくないだろ」
バツが悪くて仕方ない。感情を爆発させるなんて、いったいいつぶりだ。
「信じたよ。星夜は自分を売っていないし、医者に抱かれてもいない。――そうだろう?」
俺の髪を、ふと何かが撫でた。彼の指だ。
「触るな」
「ごめん。でも柔らかくて触りたくなる髪だ」
橘の指は離れない。彼が信じた、と言ったから、俺もその指を許した。
「眠るまでこうしてる。星夜」
「勝手にしろ。寒いから毛布かけてよ」
「ああ。……明日の朝は、お前の作ったごはんが食べたい。目玉焼きでいいから」
「馬鹿にするな。キッシュぐらいなら、あり合わせで作れる」
「じゃあ、それがいい」
何かを食べたい、と彼が自分で言ったのはこれが初めてだった。
「次の休みに、あんたを買い物につれて行くから、その予定でいて」
「俺はカードも持っていないよ。お前に何も買ってやれない」
「居候が何を偉そうなこと言ってんだ。あんたは黙って、スーツ着てついてくりゃいい」
出会った日、橘が着ていたスーツはリフォームに出してある。かぎ裂きに傷んでいた襟も、綺麗に直って戻ってくるだろう。
じじ、と音を立ててスタンドの明かりが消えた。寿命がきたようだ。
「こいつの電球も買う」
「荷物持ちをするよ」
「最初からそのつもりだよ。……もう寝ろ」
「ああ。おやすみ」
「おやすみ――橘さん」
眠気に負けて、持ち上げた手はエアコンのリモコンまで届かなかった。おぼつかない指先が掠めたのは、ベッドヘッドに置いたままになっていた、橘が勤めていた会社の社章だ。小さなピンバッチのくせに、寝室の空気に晒されてやけに冷たい。
リビングからやってくる微かな温風より、耳の下に感じる体温の方が寒さを忘れさせてくれる。橘の胸は、朝まで夢も見させないほど寝心地がよかった。




