第9章 5
「今、頭の中で俺を抱いたね」
びくっ、と彼の肩が震える。抱擁はなおもきつく、俺の声がしゃがれるほど強くなる。
「あんたの想像では、俺はどんな風?」
橘の震えは止まらなかった。背中を抱き返してやると、彼の体は感電したように跳ねた。
「質問してるんだよ、橘さん。俺は汚い? 醜い?」
「……っ、そんなこと、答えられない」
「何故? 俺を頭の中で抱いたあんたが、勃起してる理由を教えてよ」
「星夜――」
何度も俺の名前を呼んだ橘の声が、だんだんと掠れ、最後には泣き声になった。彼のことを追い詰めるつもりはなかったのに、結果的に苦しませてしまったことを、俺は少しだけ後悔した。
「意地の悪いことをしたね。許して」
「違う……。混乱……してるんだ」
橘の腕が解けていく。戸惑っているのなら打ち明けてみたらいい。俺は彼の背中をさすってやった。
「大丈夫? ゆっくり息しなよ」
「星夜、俺に優しく、しないでくれ。こんなこと、いけない。動物みたいだ。拾って助けてくれたお前を、いやらしい目で見るなんて、俺は何てことを……っ」
橘はひどく苦しんでいる。生身の人間が持っていて当たり前の欲求を、彼は否定したがっている。ずっと昔の俺のように。
「橘さん。あんたがつらくても、俺を抱いたことは、なかったことにはならないよ」
「……そうだ。酒に溺れて、お前をいいようにした。何ひとつ覚えていないのに、お前が医者に抱かれてきたって聞いて、わけが分からなくなったんだ。俺はそいつと同じことをしたのか? あの夜に――お前はどうして抵抗しなかった。どうして逃げもせずに、お前は俺をここへ置いてくれるんだ」
涙の止まらない彼の目は真っ赤で、頬にも同じ色が差していた。スタンドの切れかけて点滅している電球よりも、俺たちの関係は心許なく揺れ動いている。
何もかも、いっそあの雨の夜のセックスも嘘だよと言ってやれば、橘はきっと楽になれる。そうしないのは俺の都合だ。橘が忘れていようと、抱かれた記憶も感触も、俺の中には確かに残っている。俺は自分にだけは嘘をつきたくない、これはただの我がままだ。
「ごめん、星夜」
橘は俺を押しのけ、ベッドの端に顔を伏せた。震える指がシーツを掴んでいる。
「お前を二度と傷付けないから。……ごめんな。抱いたりして、ごめんな」
「謝るなよ。何で? 橘さん、何でそんなに、自分が悪いみたいに言うの」
「好きでもない奴に抱かれても、つらいだけだろう?」
涙で掠れた橘の言葉が、俺の心臓に容赦なく突き刺さる。左胸を縦に裂かれて、体の内側を覗き込まれたようで、怖かった。橘に自分の中身を暴かれ、ひた隠しにしてきたものを力づくで引き摺り出されてしまう。
「うるせぇんだよ!」
全身に怒りを纏って俺は叫んだ。
真実の姿を知られたくなくて、俺は橘に馬乗りになり、スウェットの丸い襟首を掴んで睨みつけた。
「知ったような口利くな! こっちは好きで抱かれてんだ! 男なしじゃとっくに気が狂ってんだよ!」
「星夜……っ」
「俺がどれだけ男を知ってると思ってんだ! 今までどうやって生きてきたか教えてやろうか! 今日の男は金もくれたよ。売ってきたよ! 欲しいって言うから売ってやったんだ! 聖人ぶって謝ってるあんたより、そいつの方がよっぽど正直でいい奴だよ!」
橘に激しい感情をぶつけながら、俺は頭の中で、まったく別のことを懇願した。
――汚いと言ってくれ!
――お前は穢れていると言ってくれ!
――両親や高校の担任のように、ルカの店のマネージャーのように、どうか俺を罵倒してくれ!
そうすれば強くいられる。突っ張っていられる。抗いたい相手さえいれば、弱い真実の自分を隠して、一人で生きていられるのだ。




