第9章 4
帰宅したのは真夜中だった。静まり返った部屋の中は、リビングにだけエアコンがついている。
俺は脱いだコートをソファに投げ、キッチンを覗いた。橘の夕食としてレンジの中に入れておいたシチューは、ラップも取らずにそのままになっている。
「全然手をつけてないじゃないか」
俺は呆れた。生きるための必要最小限の防衛本能が働いていないライオンを探して、寝室へ向かう。
「橘さん。起きてる?」
しんとした寝室で、ベッドに凭れて彼は目を閉じていた。スタンドのオレンジ色の明かりが、寿命が近いことを告げるように点滅している。
彼のそばに寄ると、黒い睫毛が寒そうに震えていた。エアコンの温風は寝室までは届いていない。部屋を暖めておけと俺が命令した理由を、彼は理解していないようだ。
「あんたに風邪をひかせたくないんだよ。拾ってやった意味がないじゃん」
俺はベッドの毛布を手繰り寄せた。温かなそれにくるまって橘の隣に潜り込む。
「……ん……。星夜、帰ったのか」
目を覚ました橘が、寝ぼけた声でそう言った。彼の目の焦点が合うまで、俺は黙って数秒を過ごした。すると、もとから近かった俺たちの顔の距離が、彼の方から縮まった。
「香水の匂いがする」
オーナーと会ってきた後は、いつも俺にオーナーの香水がうつっている。橘はその手のものを使わないから、匂いに敏感なのだろう。
「お前が普段つけているのと、違うな」
橘の鼻先が、俺の顎の下へと近付いた。首筋にキスをするような角度だった。
「星夜、誰かに抱かれてきたのか」
休日の夜に外出する用事を、わざわざ橘には言っていなかった。男を漁りに行ったのかと、あり得なくもないことを彼は問いたいらしい。
「――そうだよ」
俺は嘘をついた。マネージャーに逆撫でられた神経がまだ高ぶっていて、何でもいいから八つ当たりしたかった。橘は無表情で俺を見つめ返してくる。
「今日の相手は医者だった」
嘘をもうひとつ、ついた。能面じみた橘の顔が、どんな風に変化するのか知りたくて。
マネージャーのような冷たい目を向けられるんじゃないかと、俺は覚悟をしていた。
「しゃぶらされて、めちゃくちゃに啼かされてきた」
「……泣く……?」
「よくて啼くんだよ。俺のあそこは突っ込まれて感じるんだ。男の指でいじられると、もっと入れて欲しくてたまんなくなるの」
してもいない今夜の架空のセックスを、橘に下品な言葉で教える。汚らしい、と親にさえ罵られた自分の性を。
「医者のくせに手加減なしでさ、ガン掘りされた。もうやだって言ってんのに、口いっぱいのやつでお注射されたんだよ」
俺は舌先で、いやらしく自分の唇をなぞった。橘の視線がその動きを追いかけている。
あんたも汚いって言う――?
胸の奥でそう尋ねながら、上目遣いに彼を見た。すると、どす黒い影が橘の頬に広がり、精悍に整った顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「星夜」
抱き寄せられて、橘の胸に顔を押しつけられる。
「星夜――星夜」
苦しかった。力まかせの抱擁に酸素を奪われる。毛布の中で互いの足が折り重なった。
「……ちょっ、息、させて……。なあ、……これ」
俺の膝頭に、硬いものがあたっていた。橘が着ているスウェット越しに熱を感じる。彼は欲情していた。




