第9章 3
「今は相手はいるのか?」
「まあ適当に。その辺を歩いてれば困らない程度には釣れますよ」
「そういう相手じゃなくてよ。気の合う男と長い付き合いをしてみるのも、そろそろいい頃合いじゃねえのか」
「特定の彼氏でも作れって? 考えたこともなかったな。恋愛、したことないんで」
ウィスキーの水割りが俺の喉を駆け下りていく。冷たいそれが、体の熱を抑えてくれる。
「オーナーのことは慕ってますよ。感謝もしてるし、返し切れない恩もある。何せ俺の初めての相手だしね」
「やめろや、悲しくなる。俺は恩や義理が欲しくてお前を抱いたわけじゃねえよ」
ゲイではないのに抱いてくれた人。弱かった俺を解き放ち、この街で一人で生きるための強かさを教えてくれた。
人生の指南のような、今思い出したら照れくさくて仕方ないオーナーとのセックス。一回きりだったそれが、他に何も必要ないほど身も心も満たしてくれたから、俺は今も、仮初の相手に二回以上のセックスを求めない。
「オーナーのおかげで、俺みたいな男でも生きていられます。ありがとうございます」
「……ふん。少しは成長したか」
氷の融けたカルアミルクを、オーナーはうまそうに一気飲みした。
「奢らせてください。その代わり、来月から経費を少し上げてもいいですか?」
「歓迎するぞ、節税に大いに貢献してくれ。店の改装でもするのか」
「まさか。食器と、服と、店用のスマホを一台買う予定です」
「お前のもついでに契約しろ。いつまでスマホ無しで生活する気だ」
「無くても不便はないですよ。店にも自宅にも固定電話はあるんだし」
ホストを引退した時、数台持っていたスマートフォンも同時に解約した。指名客の連絡先をいちいち消去するのが面倒だったからだ。
「入り用はあと……キャットフードかな」
「猫を飼い始めたのか?」
「拾ったんですよ。黒い毛に黒い目の、でっかいライオンをね」
「ライオンだと。そいつはたいしたもんだ」
くくっ、と喉声で笑ってから、オーナーはホステスたちを呼んだ。
「ヒマができたら、お前の店に顔を出す。もう行っていいぞ」
「はい」
「――つまらねえ野良ライオンに引っ掻き傷を作らせるなよ。味見する前に捨てちまえ」
オーナーに頭を小突かれてから立ち上がる。俺がいなくなった後のボックス席は、すぐに女たちの賑やかな声で埋まった。
「ルカさん、これ、オーナーの酒代」
数枚の一万円札をカウンターに置く。高級クラブのカルアミルクの値段は知らない。
「余ったらボトル入れといて。アマレットとかも好きだよ、あの人」
「星夜からお金は取れないわ。蘇芳さんに叱られちゃう」
「昔俺につぎこんだ分を、取り返してると思ったらいいよ」
もう、と溜息混じりに言ったルカを横目に、マネージャーへ明朗会計をすませる。二人は店の外まで俺を送ってくれた。
「ごちそうさま」
「今度は払わせないわよ。――マネージャー、下までお送りして」
「承知しました」
「おやすみなさい。また遊びに来てね、星夜」
「うん、おやすみ。またね」
ルカに手を振って、マネージャーとエレベーターに乗り込む。七階から一階へと下る間に、マネージャーはメモ用紙で挟んだ現金を俺に寄越してきた。
「お受け取りください。ご来店中のお客様が、あなたに取り次いでくれと」
白い紙に書かれた偽名と電話番号とホテルの名前。他の人間はどうだか知らないが、俺がセックスの相手を見付けるのはたやすい。
「どんな奴?」
「学会で東京にいらしたお医者様です。私からは、それ以上の情報提供はできません」
オーナーの男くささにあてられて、肌が中途半端に燻っていたところだ。この街の夜は欲望を隠さなくていい。でも、現金を見て興醒めした。
店の中で俺を見初めた医者は、ベッドに入っても消毒薬の匂いがするのだろうか。自宅の寝室のベッドには、大きなライオンが丸まっている。
「――気分じゃない。丁重にお断りして」
メモごと金をマネージャーに返すと、彼は怪訝な顔をした。じ、と俺を見つめてくる目に冷たいものが滲んでいる。
「クラブ・シェスタで商売をされては困ります」
ぎりぎりの敬語に混じっている侮蔑。ゲイに唾を吐きかけたいのを、マネージャーは堪えている。
「商売? 笑えない冗談だ。ルカさんの顔に泥は塗らないよ」
こんなシチュエーション、俺はもう慣れたはずだ。マネージャーの些細な厭味なんて、笑ってやり過ごせる。
――後で近くのコンビニに寄って酒を買って帰ろう。水割り一杯では飲み足りないから、橘に夜通し相手をさせよう。仕事を与えたら彼は喜ぶから。
一人で俺のことを待っている橘を思い浮かべると、うまく笑えなくなった。
「言っておくけど、俺は自分から誘ったわけじゃないよ」
「あなた方には特別な嗅覚があるんでしょう。見えるところで乳繰り合われると、迷惑だ」
「向こうが勝手に値踏みしただけだろ。俺は金で抱かれてやったことはない」
この街で強くなったはずの俺を、同じ街の住人が踏みにじる。マネージャーの視線を撥ねつけて俺はエレベーターを降りた。通りに一歩出れば、オーナーの部下でもルカの客でもない、ただの俺だ。
タクシーを拾う気にはなれなかった。酒と香水と煙草の混じった苦い空気を吸い込んで、俺は一人でマンションに帰るための息継ぎをした。




