表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
眩い星夜  作者: コギン
34/77

第9章 1

 俺の暮らしに、家族というものがなくなったのは十八歳の時だ。今は歌舞伎町の歓楽街から少し離れたマンションに住んでいる。橘を拾ってからも、飾り気のない食器が並ぶキッチンには皿一枚増えていない。

「おかえり、星夜」

「――ただいま。まだ起きてたの? 俺のペースに合わせなくてもいいのに」

「大丈夫。仕事で夜更かしをすることはよくあったよ」

 瞼を擦りながら橘は笑った。バーの店長と解雇されたばかりの会社員では、生活時間が違う。

「ちょうどコーヒーを淹れたばかりだったんだ。飲むだろ?」

 部屋の中がコーヒーの香りで満ちている。俺にとっては仕事明けの一杯で、橘にとっては眠気覚ましの一杯だ。

「ありがとう。……今日もうまいよ」

 差し出されたマグカップを啜ると、濃く淹れたコーヒーが、俺の口の中に残る酒の余韻を洗い流していった。橘は偶然を装っているが、俺が帰宅するタイミングを見計らったこのサービスは、彼が自発的にしている数少ない仕事だ。

「寒いね、この部屋」

 外気温と変わらない室内は、吐く息も白かった。季節はもう初冬に差しかかっている。

「エアコンぐらいつけなよ。明日からは、俺が帰ってくる前にちゃんと部屋をあっためておいて。これは命令だよ」

 橘の返事を待たずに、俺はエアコンのスイッチを入れた。彼はサイズの合わないスウェットの上下に素足という、貧相な格好をしている。

 橘は服も小遣いも何も欲しがらない。時折、息をしていないのではないかと思うくらい存在感が薄い。どこかに気晴らしに出かける様子もないから、俺が仕事をしている間、一日中この部屋で置物のようになって過ごしているようだ。

「橘さん、食事はした?」

「いや」

「何で。冷蔵庫の中のもの、適当に使っていいって言ったろ」

「ああ。……でも、働いていないから、食べる資格がないよ」

「ダイエットのつもりなら止めとけ。少しは食べないと、体に悪い」

 居候を引け目に思っているのなら、それは無駄な考えだ。この部屋の家賃も水道光熱費も全部オーナー持ちだから、俺の懐は痛くない。それに橘が金をたくさん使ってくれた方が、経費が増えてオーナーは喜ぶ。

「はい、これ食べな」

 俺は店から持ち帰った料理を橘へと差し出した。客につまみとして提供している魚介のフリッターは、冷たくなっていてお世辞にもおいしいとは言えない。

「ちゃんと栄養は摂らなきゃ。寒い時は寒い、腹がへったらへったって、言ってもいいんだよ」

「……迷惑だろう」

「迷惑だと思ってるなら、最初からあんたをここへ連れてこないよ。もう何日まともにメシ食ってないか数えてみた?」

 俺は苛ついていた。我がままを言わない相手というのも、逆に手がかかる。

「食え。ほら」

 俺は不作法にフリッターを指でつまんで、橘の口の中へ押し込んだ。

 俺の手からしか餌を食べない、傷だらけのライオン。解雇され、会社という主人を失った橘は、きっとそのライオンだ。

「この料理は、お前が作ったのか?」

「うん。味は保証しないけど」

「おいしいよ。ホタテ、好きなんだ」

「そう。イカもあるよ」

 二つめのフリッターを食べさせると、橘の唇に油分がついた。俺の指もべたついていた。

「星夜は料理上手なんだな」

 俺にシェフを目指すほどの情熱はなかったが、調理師免許は役に立つ。料理専門学校の学費まで、オーナーが経費として計上していたことは、後で知った笑い話だ。

「レンジで温めてくるから、座って食べよう」

「俺はもういい。ごちそうさま」

「もう腹いっぱいなの? せっかくいい体してんのに、痩せちゃうよ」

 フリッターの衣をつけたままの、無気力な彼の唇を拭ってやって、俺はその指を舐めた。

 少し多めのスキンシップは、橘が男に接触されるとどんな反応をするか確かめたかったからだ。どこまでがOKで、どこからがNOか、線引きをしておきたい。

 橘は男を抱いた記憶をなくしている。ゲイとの距離の取り方を教えてやるのは、この部屋に居候をさせて彼をテリトリーに入れた俺の役割だった。

「星夜は時々、色気のある仕草をする。きっとホストの仕草が板についているんだな」

「わけの分かんないこと言って。……じゃあ、もう一杯コーヒー淹れてくれる?」

「ああ」

 仕事を与えると、橘は少しだけ嬉しそうな顔をした。同居人に何も求めず、何も欲しがらなかったのは、俺も同じだった。傷付いたライオンは命令されることを待っていたのだ。

「橘さん。明日からは洗濯と掃除もやっといて」

「分かった。任せてくれ」

 頷いた橘の顔は、さっきよりも明確に嬉しそうだった。

 家事をやらせる代わりに、橘にマグカップを買ってやろう。それも経費に計上すれば、雇われ店長としては一石二鳥だから。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ