第9章 1
俺の暮らしに、家族というものがなくなったのは十八歳の時だ。今は歌舞伎町の歓楽街から少し離れたマンションに住んでいる。橘を拾ってからも、飾り気のない食器が並ぶキッチンには皿一枚増えていない。
「おかえり、星夜」
「――ただいま。まだ起きてたの? 俺のペースに合わせなくてもいいのに」
「大丈夫。仕事で夜更かしをすることはよくあったよ」
瞼を擦りながら橘は笑った。バーの店長と解雇されたばかりの会社員では、生活時間が違う。
「ちょうどコーヒーを淹れたばかりだったんだ。飲むだろ?」
部屋の中がコーヒーの香りで満ちている。俺にとっては仕事明けの一杯で、橘にとっては眠気覚ましの一杯だ。
「ありがとう。……今日もうまいよ」
差し出されたマグカップを啜ると、濃く淹れたコーヒーが、俺の口の中に残る酒の余韻を洗い流していった。橘は偶然を装っているが、俺が帰宅するタイミングを見計らったこのサービスは、彼が自発的にしている数少ない仕事だ。
「寒いね、この部屋」
外気温と変わらない室内は、吐く息も白かった。季節はもう初冬に差しかかっている。
「エアコンぐらいつけなよ。明日からは、俺が帰ってくる前にちゃんと部屋をあっためておいて。これは命令だよ」
橘の返事を待たずに、俺はエアコンのスイッチを入れた。彼はサイズの合わないスウェットの上下に素足という、貧相な格好をしている。
橘は服も小遣いも何も欲しがらない。時折、息をしていないのではないかと思うくらい存在感が薄い。どこかに気晴らしに出かける様子もないから、俺が仕事をしている間、一日中この部屋で置物のようになって過ごしているようだ。
「橘さん、食事はした?」
「いや」
「何で。冷蔵庫の中のもの、適当に使っていいって言ったろ」
「ああ。……でも、働いていないから、食べる資格がないよ」
「ダイエットのつもりなら止めとけ。少しは食べないと、体に悪い」
居候を引け目に思っているのなら、それは無駄な考えだ。この部屋の家賃も水道光熱費も全部オーナー持ちだから、俺の懐は痛くない。それに橘が金をたくさん使ってくれた方が、経費が増えてオーナーは喜ぶ。
「はい、これ食べな」
俺は店から持ち帰った料理を橘へと差し出した。客につまみとして提供している魚介のフリッターは、冷たくなっていてお世辞にもおいしいとは言えない。
「ちゃんと栄養は摂らなきゃ。寒い時は寒い、腹がへったらへったって、言ってもいいんだよ」
「……迷惑だろう」
「迷惑だと思ってるなら、最初からあんたをここへ連れてこないよ。もう何日まともにメシ食ってないか数えてみた?」
俺は苛ついていた。我がままを言わない相手というのも、逆に手がかかる。
「食え。ほら」
俺は不作法にフリッターを指でつまんで、橘の口の中へ押し込んだ。
俺の手からしか餌を食べない、傷だらけのライオン。解雇され、会社という主人を失った橘は、きっとそのライオンだ。
「この料理は、お前が作ったのか?」
「うん。味は保証しないけど」
「おいしいよ。ホタテ、好きなんだ」
「そう。イカもあるよ」
二つめのフリッターを食べさせると、橘の唇に油分がついた。俺の指もべたついていた。
「星夜は料理上手なんだな」
俺にシェフを目指すほどの情熱はなかったが、調理師免許は役に立つ。料理専門学校の学費まで、オーナーが経費として計上していたことは、後で知った笑い話だ。
「レンジで温めてくるから、座って食べよう」
「俺はもういい。ごちそうさま」
「もう腹いっぱいなの? せっかくいい体してんのに、痩せちゃうよ」
フリッターの衣をつけたままの、無気力な彼の唇を拭ってやって、俺はその指を舐めた。
少し多めのスキンシップは、橘が男に接触されるとどんな反応をするか確かめたかったからだ。どこまでがOKで、どこからがNOか、線引きをしておきたい。
橘は男を抱いた記憶をなくしている。ゲイとの距離の取り方を教えてやるのは、この部屋に居候をさせて彼をテリトリーに入れた俺の役割だった。
「星夜は時々、色気のある仕草をする。きっとホストの仕草が板についているんだな」
「わけの分かんないこと言って。……じゃあ、もう一杯コーヒー淹れてくれる?」
「ああ」
仕事を与えると、橘は少しだけ嬉しそうな顔をした。同居人に何も求めず、何も欲しがらなかったのは、俺も同じだった。傷付いたライオンは命令されることを待っていたのだ。
「橘さん。明日からは洗濯と掃除もやっといて」
「分かった。任せてくれ」
頷いた橘の顔は、さっきよりも明確に嬉しそうだった。
家事をやらせる代わりに、橘にマグカップを買ってやろう。それも経費に計上すれば、雇われ店長としては一石二鳥だから。




