第8章 4
「あんた女の方がいいんだろ? ルックスいいし、モテそうだしな」
「別に――モテないよ」
「元ホストが言ってるんだぜ。信じていいよ」
「ホスト? お前が?」
彼は驚いた顔をした。素直な反応がおもしろくて、俺は笑ってしまった。
「もうとっくに引退したけどね」
「……どうりで美形だ」
「ありがとう。嫌いじゃないよ、顔のことを褒められるの。じゃあ、あんたとは一回きりの間違いってことで、よろしく」
「お前はそれでいいのか? そんなに簡単に割り切れることなのか?」
「言っただろ、俺はゲイだって。男と寝るのも、寝てすぐ別れるのも普通なんだよ」
割り切りがよくなければ生きてこられなかった。同性を好きになるのは間違っていると、かつての俺は重苦しい感情を抱えていたから。打ち明けることもできなかった初恋の痛みを、自由気ままな暮らしを謳歌している今頃になって、唐突に思い出した。
「お前にとっては、セックスはそんな風にドライなものなのか」
「そうだよ。お互いに面倒がなくていいだろ」
「俺にはその感覚はよく分からない」
「いいんだよ。あんたは分からなくても」
彼はまだ理解が及ばないのか、首を傾げた。その少しあどけなく見える顔が、やっぱり初恋の相手に似ている。最後まで友達のままで終わった、中学生の頃の同級生。バスケットボール部のエースだった。
「すっかり目は覚めたみたいだね。体が動くなら、帰れば? 会社は無断欠勤になっちゃったけど、あんたのスーツはいちおう干しておいたよ。まだ乾いてないけど」
「何から何まで、すまない。本当に――」
「もう土下座はいいって。電車賃くらいなら出すよ。返さなくていいからさ」
「ゲイの人はみんなお前みたいに優しいのか?」
真顔でそんなことを言われたから、つい吹き出してしまった。声を立てて笑っているうちに、俺の頭の中にあった古い思い出はなりを潜めた。
「だってあんた、財布見た? 中身ないよ」
「え? スられたかな」
「スマホもないみたいだし、倒れてる間にやられたんだろ。あんたがいた裏通りは前から物騒なんだ。命があるだけでいいとしなよ」
どうやら彼は、酒を飲む前の記憶もその後の記憶もないらしい。金も身分証もない。持っているのは、体ひとつだ。
「あ、そうだ、あんたに渡しとかないと」
ベッドの下に手を伸ばして、俺は脱ぎ散らかしたスラックスのポケットから社章を抜き取った。円形に並んだ八つの菱。小さいピンバッジわりに重たい。
「俺があんたを見付けた時、手に握ってたよ」
「それ……、捨てるつもりだったんだ」
彼は社章を受け取らなかった。
「会社のことはよく知らないけど、ここの社員なんじゃないの?」
「解雇されたんだ。もう必要のない社章だよ」
「じゃあ、無職ってこと?」
「ああ。昨日から」
彼は小さく微笑んだ。その笑顔はやけに寂しげだった。
「そっか。まあ、生きてりゃそういうアンラッキーもあるよね」
彼がゴミ集積所で泥酔していた理由が、何となく分かった。普通の会社員は、解雇されたら悔しいし悲しいだろう。まだ酒が残っているのか、彼はつらそうに頭を押さえた。
「具合悪い?」
「……ん……、頭痛がする。眩暈も……」
単なる二日酔いではなく、心身のバランスを崩しているのかもしれない。大柄で立派な体を苦しそうに折り曲げて、額に脂汗を浮かべている。傷心している様子の彼のことを、俺は不憫だと思った。
「今日も泊まってく?」
「え……、甘えてもいいのか――?」
「堅苦しく考えないでよ。今出て行って近所で野垂れ死にされたら、寝覚めが悪いしね」
これは俺の直感のようなものだ。彼は家に帰りたくないのではないかと、何の根拠もないのにそう思った。
「いいよ、好きなだけここにいても。ゲイと一緒でも気にしないなら」
「少しも気にしない。――ありがとう。お世話になります」
「セックスは無しだよ」
先に俺の方から宣言しておく。ゲイとゲイではない人間が同じ空間で過ごす上で、一定の距離を保つためだ。
「ああ、二度目はないんだったな。俺も、その方がいい」
男を抱くのは一度でいい。暗に、そう釘を刺された気がした。俺とのセックスを彼は繰り返すつもりはないのだ。ストレートの男らしい、まっとうで当たり前の彼の態度に清々しささえ覚える。
「あんたのこと、何て呼んだらいい?」
捨て猫を拾うような後先を考えない優しさは、俺は持っていないはずだった。世の中には放っておいてくれと訴える猫もいるはずだから。
「名刺もなくしたみたいだな。橘航己といいます。よろしく」
少なくとも、この大きな猫は拾われたことを疎んではいない。彼は律儀に正座をしてフルネームを教えてくれた。店の客を含めても、人の名前を聞くのは久しぶりだった。
「歳いくつ?」
「二十八。えっと、獅子座のO型だ」
「そこまで聞いてないって。獅子座ね。うん、見た目がライオンって感じ。あんたの方が年上か。じゃあ橘さん、だね。俺は星夜。星空の星夜ね。バーの雇われ店長をやってる」
逞しい彼の膝に、俺は指で『星夜』と書いた。どうせ数日も経たないうちにこの部屋から出て行く相手だ。俺の本名を教える必要はなく、ホストをやっている頃からこの街で使っている名前で事足りる。
「さすが元ホスト、マンガみたいに綺麗な名前だな」
「夢が詰まってるだろ? 抵抗あるなら、好きに呼んで」
「ううん。よろしく、星夜」
彼は俺の名を呼んで、握手を求めてきた。
いつ終わるともしれない、俺たちの気まぐれな同居の始まりだった。




