第8章 1
二十歳のバースデーイベントを終えた俺は、その後しばらくホストとして働いた。翔子の消息が分からなくなってからも、俺には次々に新しい指名客がついた。
ナンバー1の座を維持したまま、二十三歳の時にホストを引退。ルネスを退店した後は、蘇芳グループの末席の小さなバーで店長を任されている。歌舞伎町で働き、気が向けば二丁目のホテルで男と遊ぶ、退屈ながらも穏やかな毎日を送っている。
「ごめんね。俺、一度寝た奴とはもう寝ないんだ」
「え?」
ベッドの隣にいた男は、泣きボクロのある目を見開いて、呆けたように俺を見つめた。
抱かれた後の気怠い体を起こし、ホテルのシンプルなサイドテーブルに手を伸ばす。次回の約束をするつもりで男が寄越した連絡先のメモを、俺は掌でくしゃりと丸めた。
「これ、必要ないから」
ただの紙片になったメモがベッドに落ちる。乱れたリネンに転がるそれより、一晩限りの情熱は薄っぺらい。でも今夜の男は、少し勝手が違うようだ。
「いくら出せばまた会える? 俺たち、結構相性がいいと思うけど」
「金の話はやめない? 俺の主義じゃないし、せっかくいい気分なんだからさ」
喉が嗄れてひりひりと痛む。俺が何度も声を上げてしまうくらい、気持ちのいいセックスだったということだ。快楽の追求は一人で自慰をすることと変わらない。今この瞬間の充足感をどれだけ損なわずにいられるか、俺は今、それしか考えていない。
「ごめん。……余計なことを言ったね」
「いいよ。気を遣う間柄でもない」
乱れた前髪を掻き上げて、俺は床に散らばっていた服を拾った。手早くシャワーを浴びて着替えをすませると、情事はもう過去のものになった。
「行くところはあるの? よかったら俺のマンションにおいでよ。部屋は余ってる」
行きずりのセックスの相手に、優しいことを言う男だ。彼は捨て猫を拾って親に叱られるような子供だったのかもしれない。きっと、拾われることが猫にとって幸せかどうか、考えが及ばないタイプだろう。
「仕事」
「こんなに遅い時間から?」
「どう見てもカタギじゃないだろ、俺。じゃあね」
部屋に男を残してホテルを出る。世間と昼夜逆転した一日がセックスで始まる。そんなごくありふれた今日、酔客を擦り抜けてネオンサインの海へと泳ぎ出す。
二十五歳の秋の終わり。今も俺は、新宿で暮している。
東京に三日続けて雨が降った。林立するバーやクラブが次々と世代交代を繰り返す歌舞伎町も、こんな日は活気を失って陰鬱な印象になる。最寄りの新宿駅ではそろそろ最終電車が出発する時刻だ。
「グレンロセスを、シングルで」
「かしこまりました」
俺の店は、ワンショットを千円台で売る良心的なバーだ。新宿一帯の大実業家として名を馳せている蘇芳グループのオーナーが、税金対策に作った店である。わざと赤字経営にすることで、納める税金が安くなるらしい。
「星夜、つまみを頼んでもいい?」
「私、地鶏のオムレツをもらおうかな。お腹すいちゃった」
「こっちも同じやつちょうだい。ライスもつけて」
「オーダーが立て込むと困るなあ。黒字にしたらクビになっちゃうからさ」
俺がそう言うと、常連客しかいないカウンターが笑いに包まれた。
ホストをしていた頃と同じ名前を名乗っているが、俺の仕事はだいぶ様変わりした。女に跪いてサービスを売ることはなくなり、この店は俺の気分次第で、フードも酒もオーダーストップになる。
「オムレツは今ので売り切れね。みんな、食って飲んだらもう帰って」
「冷たいなあ」
「お詫びに華麗な俺の手捌きを見て行ってよ」
俺が片手で卵を割ると、拍手が起こった。料理は俺の数少ない趣味の一つだ。ホストを引退した後、手に職をつけろというオーナーの勧めもあって、調理師免許を取った。
この店には俺と同じような元ホストや、元ホステス、元クラブボーイといった、過去の肩書を持つ客がよく訪れる。きっと新宿から離れられない人間が多いからだろう。




