第2章 1
満員電車に揺られながら、窮屈な胸に通学カバンを抱き締める。俺は誰にも言えない秘密を抱えている。この電車の中に、俺の仲間はいるだろうか。朝のラッシュで揉みくちゃになりながら、ゲイだということを隠している俺を、理解してくれる人はいるだろうか。
高校生になって一年と少しが過ぎても、俺の不眠症は治らない。中学生の頃と変わったのは、電車通学を始めたこととスマートフォンを持つようになったことくらいだ。授業とテストを繰り返す毎日は、失恋の記憶を上書きするには単調過ぎて、今日も車窓の景色がストリーミングの動画のように淡々と流れていく。
『まもなく――駅に到着します。乗り換えのご案内は――』
大きなカーブに差し掛かると、車両ごと俺の体も揺れた。車内はひどく混雑していて吊革も持てない。他の乗客に押されて、俺は後ろへ倒れ込んだ。
「大丈夫かい?」
男の人に声をかけられて、俺は驚いた。知っている人の声だった。
「秋川先生? おはようございます」
俺は体勢を直しながら、顔を彼の方へ向けた。
「おはよう。転ばないように気を付けて」
秋川は俺が通っている高校のクラス担任だ。二十七歳の数学教師で、四月の最初のホームルームの時に、今まで赤点の生徒を出したことがないのが自慢だと言っていた。秋川がいつもかけている眼鏡が、彼をいっそう誠実な印象に見せている。数学を丁寧に教えてくれる温和な彼のことを、俺も含めてクラスのみんなは慕っている。
「すみません、先生の足を踏んだかも」
「大丈夫。踏まれてないよ」
線路のカーブに沿って、電車はまた大きく揺れた。俺は足元のバランスを崩して、秋川に全体重を預けてしまった。
「うわっ!」
「きゃっ!」
車内のあちこちで短い悲鳴が上がっている。吊革を握っていた秋川が、空いている方の腕で俺の体を支えてくれた。
「危ないね。しばらくこのままでいよう」
「は……はい、すみません」
俺の体と秋川の体は、ぴったりと密着している。そのことを俺はなるべく意識しないようにした。意識してしまうと、途端に鼓動が乱れて、落ち着かなくなってしまうから。
初恋に立ち竦んだ頃の自分を置き去りにして、体だけが勝手に大人になっていく。スマホをタップすれば可視化される世の中の裏側で、ネット上に溢れる女の人のアダルト動画を素通りして、俺が検索をかけるのはいつも同性愛を扱ったサイトだ。
同性愛者をゲイと呼ぶことも、LGBTQという言葉も、性的な指向を告白するカミングアウトという行為もネットで知った。日本で一番人口が多い東京には、ゲイが集まる街があるらしい。でも地方の田舎で暮らしている俺は、リアルなゲイの仲間に出会ったことがない。
「毎日この時間帯は混んでいるね。車通勤の先生たちが羨ましいよ」
ふと思い出したように、秋川は呟いた。彼は背が高いから、彼の唇の位置と、俺の耳の位置がちょうど同じ高さになる。耳がくすぐったくて、俺は落ち着かない気分がした。
「君はいつも一人で通学しているの?」
「はい」
「実は以前から、君と何度も同じ電車に乗り合わせていたんだよ」
「そうだったんですか? 全然気付きませんでした」
「昨日はスマホを熱心に覗き込んでいたね。ゲームでもしていたのかな?」
「え……」
「不思議だね。毎朝、君が乗っていないか探してしまうんだ」
「そう、ですか」
秋川は小さく笑ってから、吊革を握り直した。制服の俺の背中は、彼の体の厚みを感じて、いつの間にか汗ばんでいた。
会話が途切れた間に、満員電車は駅に向かって速度を落としていく。俺は訳もなく息苦しさを感じた。酸素の薄いこの車内から、早く解放されたかった。