表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
眩い星夜  作者: コギン
29/77

第7章 3

「ありがとう、ルカさん。俺にはこれしか言えなくて、ごめん」

 俺の呟きが、夜の街の喧騒に紛れて消えていく。

 俺は高ぶった気持ちのまま、一人でルネスに向かった。さくら通りまでの帰り道を歩いていると、後ろから呼び止められた。

「――星夜」

 ルカの声の余韻が掻き消される。後ろを振り返って愕然とした。

「翔子さん……?」

 数ヶ月ぶりに見た翔子の顔は、アイメイクの色合いがちぐはぐで、グロスも唇の輪郭からはみ出している。ルネスへの出入りを禁止にしてから、翔子とはメッセージのやり取りをするだけで一度も会っていなかった。黒いボストンバッグを震えながら抱き締めていて、明らかに様子がおかしい。

「星夜、さっきの女が、本命なの?」

「店のゲストだよ。新人の頃から贔屓にしてもらってる」

「私よりあんな女がいいの? 知ってるのよ、あれルカでしょ? 女王って呼ばれてるけどソープ嬢じゃない!」

 キャバクラ嬢とソープ嬢に上下関係や優劣はない。そこにホストを加えたとしても、それぞれがそれぞれの世界で懸命に生きているだけだ。

「翔子さん。ゲストのプライベートは口にしないでほしい」

 俺たちは少しずつ、自分の中の何かを削り、それを他者に売って生きている。金で男に抱かれたくない俺も、女に値段をつけられて息をしている。翔子も男に値段をつけられる毎日だろうに、ルカへの罵倒をやめなかった。

「吉原の女なんか……っ、あんな汚い、体売ってる女がいいの? ねえ!」

「やめろ。人が見てる。それ以上俺のゲストを侮辱したら許さない」

「ソープ嬢なんかより私を抱いてよ。星夜見て、これ」

 翔子はバッグの中から何かを取り出した。帯がついたままの札束だった。

「三千万あるの。……お願い。これで私のものになって」

 彼女の足許にばらばらと札束が落ち、山ができた。とうていまっとうな方法で得た金とは思えない。

「翔子さん――、どうしたんだ、その金」

「どうだっていいでしょ! 星夜を買うわ! 今すぐ私をホテルへ連れて行きなさいよ!」

 深夜のさくら通りに、翔子の声がこだまする。その直後、耳を劈くような車のブレーキ音が鳴り響いた。

「……あ…、ああ……っ」

 翔子の表情が、蝋がどろどろに溶けるように崩れた。通りに突如現れたワゴン車から、マスクやサングラスで顔を隠した男たちが走り出てくる。

「いや……っ、わ、私……っ、いやぁ!」

 翔子は悲鳴を上げた。暴漢たちは瞬く間に彼女を囲み、逃げ道を塞いだ。

「やめろよ、お前ら!」

 髪を振り乱して暴れる翔子を捕らえ、暴漢たちは車へと引き摺って行く。翔子を助けようとした俺へと、鉄パイプを持った暴漢の一人が向かってきた。

「翔子さん!」

「星夜!」

「……ッ!」

 突然、後ろから強く肩を掴まれた。一瞬のうちに血の気が引く。暴漢の仲間に、俺も捕らえられたのだと思った。

「助けて! いや――!」

 スモークを張った車のドアに遮られて、翔子の姿が見えなくなる。俺の前にいた鉄パイプの暴漢は、舌打ちをして車へと向き直った。

「待て! その人を返せよ!」

「動くな、星夜」

 肩を掴んでいた誰かが、俺の名前を呼んだ。その声がルネスのオーナーの声だったことに、俺は驚愕した。

「何で……」

 暴漢たちが足早に車に乗り込む。翔子を閉じ込めた真っ黒なドアは、それから二度と開くことはなかった。

「翔子さん!」

 追い駆けようとした俺の肩を、オーナーはさらに強い力で掴んだ。爆音を響かせて車が走り出す。

「動くんじゃねえ。一歩でも動いたら、お前も拉致される」

「何故――。彼女を助けてください、今ならまだ……っ!」

「無理だ。あいつらは雇われ者の半グレだろう。組織の金を持ち出した翔子のガラを押さえるために、愛人のヤクザが追い込みをかけたんだ」

 翔子が俺を買おうとしたあの金。彼女の足元で山になっていた札束は、暴漢たちによって跡形もなく回収されていた。

「もう少し早く、俺のところに情報が回っていればな。こんな事態になる前にお前を寮から一歩も出さなかったんだが、間一髪ってところか」

「何が間一髪だよ!」

 俺は叫んだ。オーナーにぶつけた怒りは、何もできなかった自分への怒りだった。

 目の前で翔子が消えた。ヤクザが彼女を力尽くで捕らえ、どこかへ連れ去ってしまった。

「離してください! どうして翔子さんを見捨てたんですか、まだ助けられたのに!」

「甘いんだよ、お前は」

 オーナーはそう一蹴した。彼の声は厳格だった。

「あいつらは、ホストが女をけしかけて金を盗ませたと思ってる。あの鉄パイプを見ただろう。お前はたった今ここで命を狙われたんだぞ」

「俺は金を盗めなんて、一度も言ってません」

「お前が無関係だろうが、あいつらに道理は通じない。ヤクザを相手に、カタギの人間ができることは何もない。お前に翔子は救えないんだよ」

「オーナーなら救えるんじゃないんですか……っ」

 涙声になってしまったことを、恥ずかしいと思う余裕もない。喉の奥から悔しさが込み上げてきて、俺は嗚咽した。

「星夜、俺もヤクザじゃねえ、ただのカタギだ。無力だよ。俺ができるのは、せいぜいお前がバカな行動をしねえように、こうして押さえつけてやることだけだ」

 オーナーに掴まれたままの俺の肩が、骨が軋みそうなほど痛かった。彼のこの大きな手がなかったら、俺は後先も考えず、暴漢たちに立ち向かっていた。そしてきっと翔子を取り戻せもせずに、鉄パイプで殴られて死んでいただろう。

 翔子を乗せた車はもう見えなくなっていた。俺だけがオーナーに守られて、さくら通りはまるで何事もなかったかのように、ネオンサインと酔客の喧騒に包まれている。

「人が、一人、消えたのに。誰も何も、見てなかったん、ですか」

 しゃくりあげて泣く俺は、何の力もない一人のホストでしかなかった。

「見てねえよ。誰でもてめえの責任の及ばねえものは、興味もねえだろう」

「翔子さんは、俺のゲストだ。ホストの俺を、好きになった、だけなんだ」

「一線を越えた女が、ヤクザのルールを破っちまった。お前が背負ってやるには荷が重い」

「ホストの俺が、翔子さんをあんな目に遭わせたんだ――」

 愛してくれた翔子を、愛し返すこともできないくせに。無責任に流す涙が止まらない理由は、自分にも分からない。

「やったことの落とし前をつける時はいつか来る。今はあの女の番ってだけだ。自分の番が来るまで、お前は死ぬんじゃねえ。生きてりゃその頃にはまた、違うお前になってるだろうよ」

 二十歳の誕生日。酒の味を覚えた夜に、俺は二人の女を見送った。

 一人はどこまでも高い成功の空へ羽ばたき、一人はどこまでも深い穴の底へ落ちていった。俺はそれをただ見ているだけだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ