第6章 1
ヘルプの後輩が点したライターの火に、ゲストが細い煙草をそっと翳す。たいしてうまくなさそうに一服して、新人ホストの頃から俺を指名し続けている翔子が、軟体動物のようにしなだれかかってきた。
「ねえ、星夜。お正月は何してたの?」
ホストになって二回目の正月が過ぎた。粉雪が舞う今夜も俺はルネスでサービスを売っている。店の外は真冬だというのに、ボックス席は亜熱帯のように蒸し暑い。
「毎日宴会。アフターは先輩たちに連れ回されて、酔い潰れた順に俺が介抱してたよ」
「お酒飲めないのに、かわいそう。私がいいところに連れてってあげようか?」
歌舞伎町でキャバクラ嬢をやっている翔子は、このところ毎日ルネスに来店している。彼女にヤクザの愛人ができたのは半年ほど前のことだ。羽振りのいい相手だったらしく、一時期はルネス通いを控えるほど円満な関係だった。でも久々に来店した時に彼女の表情が暗くて、それとなく理由を聞いたら、愛人から暴力を受けていることを打ち明けられた。
この街で暮していれば、翔子のような話はいくらでも耳にする。彼女はヤクザとの関係に行き詰って捌け口を求めている、ホストクラブから抜け出せない典型的な客だった。
「私のお店に行かない? お酒の飲み方を教えてあげる」
「俺まだ十九だから。酒はバースデーイベントまで待って」
「四月でしょ? まだ先じゃない。今時ホーリツなんて守るホストいないよ」
そう言って翔子は頬を膨らませた。演技的なその仕草が、俺にはどこか儚げに見える。
「ねえ、翔子のこと好き?」
今夜何度、同じ台詞を聞いただろう。ホストクラブは偽りを売るところだ。翔子も他のゲストたちも、嘘しかない想いを俺に確かめたがる。
「そういうことは、聞かない方がいいんじゃない」
「つれないなあ。でも星夜のクールなところも大好き」
スーツの胸に耳をぴたりとつけて、翔子はそう呟いた。ゲイであることを隠し、ていよくゲストをあしらえるようになった自分に呆れる。たとえ仕事だと言い訳をしても、嘘をついて女に取り入るという一点で、ホストは悪人なのだ。
「星夜が欲しくなっちゃう。――ねえ」
ぞく、と背筋に冷たいものが走った。俺を見上げる彼女の両目が、狩る目をしている。
「二人きりになりたい。私のものになって」
情欲と独占欲と、本当の恋愛感情が綯交ぜになった目。恐怖に近いものを感じて、俺は予防線を張った。
「翔子さん、パパいるじゃん。どこかの組織の偉いヤクザなんだろ?」
「あ――あんなの関係ない。すぐに殴るし、別れたいの」
翔子は逃げ場所をホストに求めている。ヤクザに搦め捕られてどこにも行けない女の本音が、ノンストップの店のBGMに溶けていく。
「星夜に会いたくてここに来てるのよ? ボトルが足りないの? どうしたら星夜は私のものになる?」
「ちょっと、落ち着いてよ。飲み過ぎだって」
チェイサーの水を翔子に勧めながら、俺は困った風な微笑を作った。どれだけ指名をもらっても、彼女のものになる気はない。なれないのだ。
「星夜の彼女にして。ヤクザもキャバ嬢目当ての客も、もううんざり。星夜のためならいくらでも払うから、ねえ」
「俺――安く見られてるの? 寂しいな」
「枕営業くらい誰でもやってんのよ。ホストなんだから私の言うことを聞いてよ!」
翔子の大きな声に、他のテーブルで飲んでいたゲストが驚いている。トラブルを察知したホール主任が、ヘルプの後輩たちを連れて駆け付けた。
「星夜、9番にご指名ご来店です」
「はい」
ヘルプと入れ替わって席を立つ。欠番である『9番テーブル』はルネスの隠語だ。騒ぎを起こさないようにバックヤードへ避難しろ、という意味で使われる。
「ごめんね、翔子さん。俺よりイケメンを置いていくから、楽しく飲んでて」
「いや。ここにいてよ。どこにも行かないで」
「申し訳ありません。星夜は他のお客様がお待ちですので――」
「私は星夜と話してるの!」
翔子は水割りのグラスを掴み、ホール主任に向かってぶち撒けた。俺は思わず舌打ちしそうになって、寸でのところで堪えた。
「翔子さん、本日はお引き取り下さい。お送りします」
虚しい恋に釘を刺すのも、自分の役目だ。ゲストを本気にさせるホストは二流だと、俺は一流の先輩たちに教えられた。
「店の迷惑になる。外へ出よう」
「星夜……私」
「立って。翔子さんの服も濡れてる。そのままじゃ恥かくだろ」
主任と目で合図して、翔子を店の外へ連れていく。いつもツケで飲む彼女は明細票を見ない。彼女の今月の売掛金は先月の倍に膨らんでいる。
「星夜……っ」
エントランスで抱きつかれて、溜息を噛み殺すのに苦労した。俺は自分の財布から引き抜いた一万円札を、翔子の服のポケットに捩じり入れた。
「何――?」
「クリーニング代」
「いやよ、星夜にお金を出させるなんて」
「いいから」
「……怒ってる……の?」
「しばらくの間、出入禁止だ。我がままを言った罰だよ」
「星夜……、ごめん。ごめんなさい――」
恋に恋をした女が泣いている。俺は冷酷なホストになりきって、翔子を抱き返さずに、こっちへ向かってくるタクシーに手を挙げた。
「頭が冷えたら連絡して。売り掛けが残ってる。踏み倒したらどうなるか分かってるよね」
「そんな言い方しないでよ。ちゃんと払うから」
俺にすがりつきながら、翔子はさらに泣いた。涙を拭いてやらない自分を、俺は心底、悪い人間だと思った。
「これ以上催促はしないけど、回収しないと店が困るんだ。そろそろ目を覚ましたら?」
「……星夜。私のこと嫌わないで。お願い、許して」
タクシーの後部座席に乗った後、翔子は悲しい目をして俺を見上げた。
「ホストクラブは遊ぶところだ」
「星夜――」
「最後まで遊び通せない人は、来ちゃいけない」
ドアが閉まり、タクシーがゆっくり走り出す。車影が夜の街に消えてからも、翔子にあの目で見つめられているような気がして、落ち着かなかった。




