第5章 5
タワーホテルのバスルームから、巨大なオフィスビルが林立する新宿駅の西口一帯が見える。駅を挟んだだけで、風景はこんなにも変わるのかとぼんやり思う。呆れ顔のオーナーに車に乗せられて、彼の定宿だというこのホテルへ連れてこられた。
濡れた髪のまま俺がバスルームを出ると、品のいい家具を置いたリビングで、オーナーが誰かと電話をしていた。
「――ああ、こちらは問題ない。大丈夫だ、心配はいらねえよ。俺の手を煩わせたんだ、お前には後でたっぷり礼をしてもらうからな」
そう言ってオーナーは通話を切った。テーブルにスマートフォンを置いた彼は、俺の髪からぽたぽた落ちる雫を見て苦笑した。
「俺に床掃除させる気か。少しはあったまったか?」
「はい」
「お前な、世話になってる先輩に心配をかけるなよ。矢坂が大慌てで連絡してきたぞ」
「……すいません」
へたくそな言い訳をして二丁目を出てきたから、矢坂には迷惑をかけてしまった。シャワーを借りたおかげで、俺は少し冷静さを取り戻していた。
「コスプレの吸血鬼にナンパされたそうじゃねえか。矢坂が気にしてた。二丁目はお前には早かったとよ」
「俺は、別に、……二丁目に行ったのは初めてじゃないし」
「そうかよ」
俺の返答に、オーナーはたいして興味がなさそうに呟いた。
「あの辺には俺の事務所のビルもある。茶ぐらい出してやるから、いつでも寄れや」
事務所には多分行かないだろうと思って、俺は返事をしなかった。こうして二人で世間話をしたいわけじゃない。バスローブを纏って立ったままでいる俺に、オーナーはわざとらしいくらい大きな溜息をついた。
「どうした。カルチャーショックでも受けたか? 吸血鬼に何て言われたんだ? んん?」
「ホテルに、入ろうって。俺にそういう経験がないって気付いたみたいで、そいつが、友達を呼んでみんなで楽しもうって」
「ハッ、逃げて正解じゃねえか。お前男にマワされるところだったぞ」
危ねえ危ねえ、とオーナーは繰り返した。
「ヘタすりゃ、えぐい動画でも撮られたかもしれねえ。男だって安全じゃねえ世の中なんだ。遊びたいなら自分の身は自分で守れ、夜の新宿はどこでもな」
「……はい。オーナーにも矢坂さんにも、迷惑をかけました。反省してます」
オーナーに諭されて、俺は自分の身に起きたことを理解した。二丁目に集まるゲイには、いろいろなタイプがいるということだ。善人ばかりじゃない。
「お前はバカだな。せっかく逃げられたのに、さっきは大胆な誘い方をしやがって。俺としたことがドキッとさせられたじゃねえか」
露悪的に微笑むオーナーは、あの吸血鬼よりは善人だ。雨に濡れないこの部屋を提供して、俺のことを踏み止まらせようと、彼はとりとめもない会話を続けている。
「驚かせて、すいません。でも俺……、本当に、本気なんです」
「本気ってお前、ちゃんと意味を分かって言ってんのか。経験がねえんだろう? 初めての相手はかわいい女にしとけや」
俺はぶるぶるっと首を振った。
「女、いやか。二丁目が初めてじゃねえって言ったのは、そういう意味か?」
「はい。俺はゲイです」
秘密を打ち明けることを、俺は躊躇わなかった。セックスがしたいと告げた人に、何も隠す必要なんてないから。
「じゃあかわいい男はどうだ。お前と歳が近い奴とか、俺でなくてもお前なら相手を選べるだろう」
また首を振って、俺は泣きたい気持ちになった。




