第1章
ベッドの中で手足を縮め、目覚まし時計が鳴るのをじっと待っている。
午前四時。ハンガーにかけたブレザーの制服が、まだ明けない空と同じ色をしている。
この世界に不眠症というものがあることを、学校の図書室で知った。眠ることがへたくそになった理由を、俺はひとつしか思い付かない。
十五歳の春。今日は中学校で過ごす最後の日だ。
「――卒業してもまた会おうね。約束だよ」
「ずっと友達だから。高校に行ってからも絶対連絡してね」
クラスメイトたちの声で、教室の中は賑やかだ。卒業式が済みホームルームの時間が終わっても、みんな別れを惜しんでなかなか解散しない。校庭の満開の桜のようにおしゃべりの花が咲く中を、俺は机を空っぽにして帰り支度をした。
息苦しくて胸が潰れるようだった毎日から、今日やっと脱出することができる。一秒でも早く、俺は教室を離れたかった。
「あれ? お前もう帰るの?」
友達に急に声をかけられて、俺の心臓から変な音がした。これは病気だ。脈拍が速くなる症状は、いつも彼、森崎祐太によって引き起こされる。
「……うん。卒業式、終わったし」
「今から原田や佐々木とカラオケに行こうって言ってんだ。高校に進んだらみんなバラバラになるだろ。今日くらい一緒に遊びたいから、お前も来いよ」
クラスの連中と遊びに行ったことは、今まで数えるくらいしかなかった。俺は一人で漫画や小説を読んで過ごす方が好きな、地味な存在だから。成績も友達関係も、全てにおいて目立たない生徒だった俺を、人気者の森崎はよくかまってくれた。
「高校の制服の採寸に行くんだ。だからカラオケは無理」
森崎のたくさんいる友達の中の一人でしかなかったのに、いつも話しかけてくれて嬉しかった。でも、今日を限りに彼には俺のことを忘れてほしい。
「ええ? じゃあお前と話すの、これで最後になっちゃうじゃん。寂しいよ」
そう言われて、俺の心臓がまたひしゃげた。
森崎。正義感が強くてかっこいい、俺の大切な友達。
バスケ部のエースだった彼を、こっそり遠くから見つめているだけでよかった。三年間、彼に気付かれたらどうしようとびくびくしながら、その瞬間が来たら終わりだとずっと思っていた。彼に拒絶されるくらいなら友達のままでいたくて、何度も呑み込んだ秘密の気持ちが、俺の腹の奥に溜まっている。
「あの……森崎」
「何?」
人を好きになることは、純粋できらきらした綺麗なことだと思っていた。でもそれは俺の思い違いだった。
きっかけは何だったか思い出せない。淡い憧れよりも切実なこの気持ちは、普通じゃない。森崎は男だから。男を好きになった俺も、男だから。それを認めたくなくて、同性愛という名前を、この初恋につけるのが怖かった。
「……俺……」
本当はもっと森崎と話したい。もっと一緒に勉強がしたい。一度でいいから手を繋いでみたい。付き合っている彼女と森崎がすることを、俺とも、してほしい。
「どうした?」
「う、ううん。何でもないよ」
もう限界だ。どんなに我慢しようと思っても、感情が決壊しかけている。告白してもどうにもならない。俺の想いを森崎が知ったら、嫌われて、それで終わり。
「森崎、高校に行ってもバスケがんばれよ」
俺は笑顔で言った。これまで何百回と作ってきた顔だ。友達だったこともなかったことになるのは嫌だから。森崎との三年間の思い出は、俺だけが抱えて持って行く。
「じゃあな」
「あっ、おい! 待てよ」
「日本代表になって森崎がオリンピックに出たら、テレビで応援するから。バイバイ」
早口で言って教室の外へ飛び出す。廊下をぞろぞろと歩く生徒たちに紛れて、森崎の声が聞こえない距離まで全速力で走った。
告白する勇気なんてなかった。
秘密を守るために失恋を選んだ、中学最後の日が終わる――。
第1章を読んでくださってありがとうございました。主人公の物語はここからスタートになります。第2章では高校生になった彼を描きます。お気に召しましたら、ブックマークやポイントなどで応援いただけますと大変うれしいです。