第5章 4
「大丈夫?」
若い男の声だった。水溜まりに浸かった靴が重たい。
「すいま、せん。ありがとうございます」
「酔ってんの? 二丁目にはよく来る? ちょっと休んでく?」
そう言って、男は俺の肩を抱いた。吸血鬼のコスプレをしていた彼は、近くの狭い路地へと向かって、俺に目配せした。
「一緒においでよ。――君も俺と同じだろ?」
雨に打たれたホテルの看板が、手招くように赤く点灯している。俺が本当にいるべき世界はこちらなのだと、思い知らせようとしている。
ホストの世界は偽りに過ぎない。嘘の名前でサービスを売って、たとえ一晩で何百万も金を稼いだとしても、何ひとつ満たされない。それに比べてゲイの世界はどうだ。あのホテルの看板をくぐるだけで、俺は俺自身を偽らないでいられる。
「もしかして初めて?」
彼は、とても優しい声で言った。俺は何故だか、その優しさを気味悪く思った。
「男どうしで気持ちいいこと、したことない?」
「……ない、です。女とも……」
「本当? ヤバい。俺の友達呼んでもいい?」
「友達……? どうして呼ぶんですか……?」
「多い方が楽しいじゃん。二丁目にショジョを捨てに来たんだろ? 優しくしてやるよ」
作り物の吸血鬼のキバを剥き出しにして、彼はにたりと笑った。どこかで見た覚えのある笑顔。胸の奥に噴き出してきた違和感が、高校の担任の顔を思い出させて、俺の体じゅうに鳥肌が立った。
「星夜!」
矢坂が通りの向こうから駆け戻ってくる。傘を握り締めながら、ゲストが心配そうに俺のことを見ている。
「お前何してん、早うおいで」
「――ツレがいたのかよ」
捨て台詞のようなものを呟いて、コスプレの吸血鬼はどこかへ行った。俺の鳥肌はまだおさまらなかった。
「さっきの奴に何か言われたんか? 迷子になるから、俺らから離れたらあかんで」
いるべき世界を見失って、どこへも身を寄せられないでいる俺は、迷子に違いなかった。こうして気にかけてくれる矢坂でさえ、俺と同じ世界の住人にはなり得ない。
弟分のために雨に濡れることも厭わない、本物の優しさを持つ矢坂に、俺は自分の傘を差し出した。息が苦しくてたまらないから、ここではないどこかへ逃げたかった。
「俺、店に忘れ物したみたいなんで、失礼します」
「ちょっ、どうしたんや急に。店戻るならタクシー使え」
「走るからいいです。せっかく誘ってもらったのに、アユミさんに謝っといてください」
「星夜? 走るてアホ! 風邪ひくで!」
矢坂の声を背中に聞きながら駆け出した。ハロウィンの人混みに抗って、ずぶ濡れでルネスまでの道を戻る。スーツの上着が重たくて、まるで鎖のように自由を阻もうとするから、俺はやけくそになって脱いだ。
「ハッ、はぁっ、……う……っ」
全速力に限界が来た途端、胃の中にあったものが逆流してくる。手に持っていた上着に、今夜飲んだコーラやウーロン茶ごと、俺自身を蝕んでいる違和感を吐き出した。
「うえ……っ、ゲホッ」
名前を知らない吸血鬼も、誠実そうに見えた高校の担任も、俺に欲望だけを突きつけてくる。その姿はまるで、強い動物が弱い動物を食べるようだ。彼らは欲望を向けることに何の疑問も持っていない。弱い者の気持ちは最初から無いものとして扱われて、ただ彼らの餌になることだけを強要される。
「……ウウ……、…怖いよ……っ!」
嘔吐した後で、俺は呻いた。抵抗する力もないくせに、自分を捨てられなくて、こうして逃げることしか思いつかない。濡れ鼠のように弱くてみじめな俺は、どこにも行くところがなかった。
ふらふらと歩きながら、俺は天を仰いだ。新宿二丁目は、仲間に出会える夢の街のはずだった。でももう、その街はネオンサインの向こうに消えて、何も見えない。
迷子の俺を置き去りにして、ハロウィンの歌舞伎町は雨に霞んでいる。花園通りを進み、さくら通りへ曲がる角で、俺はもう歩く力もなくなって足を止めた。
「あぁ? 星夜か? 誰かと思ったぞ」
低音の声を追って、俺は顔を上げた。そこに停まっていたのは、見知った黒塗りのベンツ。運転手に傘を持たせたルネスのオーナーが、後部座席に乗り込もうとしている。
「幽霊かヤク中みてえなナリで、何してる。ガキはもう寝る時間だぞ」
ざあざあとうるさい雨の下でも、オーナーの声はよく聞こえた。頼りない、白っぽく霞んだ視界の中で、オーナーの黒い車と黒い三つ揃えのスーツがくっきりと像を結ぶ。
「オーナー」
弱い自分を、どうにかしたかった。弱いままこの街にいて、誰かの欲望にボロボロに切り刻まれるのなら、今目の前にいる、誰よりも強い人にそうしてもらいたかった。
「俺とセックスしてください」