第4章 2
「みんなもたくさん飲んで。蘇芳さんもご遠慮なくどうぞ」
キャストの数が多いとボトルはすぐに空いてしまう。二百万円のヘネシー・リシャールが今夜はもう二本目だ。
「女王様はえらくご機嫌だな。おいお前たち、これは永久指名のチャンス到来だぞ」
「いただきまーす!」
オーナーにうまく煽られて、先輩たちはキャスタンを次々に空にした。女王は大金を落とすゲストにありがちの、横柄さや傲慢さが全くない人だった。場馴れしていない俺にも気を回し、自然に会話の中へ溶け込ませてくれる。
「マッハフーズ?」
「はい。この店に寿司を配達に来て、矢坂さんにスカウトされたんです」
「最初は高校生がバイトしてるて思たんですよ」
「未成年はホストになれないものね。確かに、あなたはちょっと幼く見えるわ」
「ええでしょ、こういうタイプの顔、ルネスに今までおらんかったし。弟キャラで売り出したろて思て」
「また勝手にそんな……。まだ俺、正式に入店するって言ってないですよ」
「あらあら、矢坂さん信用されてないみたいよ? がんばって」
この店にいる時、女王はいつでも楽しそうだ。女が苦手な俺でも接しやすくて、もし姉がいたらこんな感じだろうか。
そんな取りとめもないことを考えながらテーブルにチェイサーを置く。ふと、白くて華奢な女王の手首が目に入った。袖ぐりのチュールレースの下に、古い傷痕がある。
見間違いじゃない。彼女の左の手首の内側についた一直線の傷。リストカットだと直感して、思わず視線を彷徨わせた俺を、オーナーが叱った。
「おい、ゲストのグラスが空いてるぞ。ぼけっとするな、接客中は集中しろ」
「は、はい」
おかわりのリシャールを注いでいる間も、彼女の傷痕から目が離せなかった。服で特に隠してもいないようだし、先輩たちも平然としているから周知のことらしい。次々と高級ボトルを注文し、笑っている彼女の様子は、リストカットをする人には見えない。
その古傷の理由を聞くのは絶対いけないことだ。ホストのルールというより人としてだめだ。でも重たい事情がありそうで、彼女の手首を見ているだけで痛々しい。俺はまだ水商売に染まっていない田舎者のガキだから、キャストの全員が見て見ぬふりをして、まるで彼女の傷痕が無いもののようにして接客していることに、ひどく違和感を覚えた。
「――あの、すいません。左手お借りします」
俺は自分がつけていたブレスレットを外して、テーブルの下で彼女の手首にそれを嵌めた。この街で暮らし始めた記念に買ったそれ。安物のターコイズとシルバーのチェーンが、彼女の傷痕を隠す。
「あら」
女王の長い睫毛が瞬きで揺れる。賑やかだったVIPルームが、しん、と静まった。
「これはなあに? 新人さん」
ブレスレットをかざしながら、彼女は俺の太腿に手を置いた。ざわっと肌に走った震えは、本能的な異性への嫌悪だ。それを押し殺しながら、彼女に笑顔を向ける。
「男物も、意外に使いやすいですよ。今日の服の色によく似合ってます。それ、よかったらもらってください」
「何をやってんだ新入り。失礼だぞ!」
テーブルの向こうから、アキラの鋭い叱責が飛んできた。
ヘルプの俺がしたことは生意気で僭越だ。先輩たちのように、見ないふりをしてやり過ごす方が正しい。でも一度目にしてしまったら、手首を切った彼女の痛みに共鳴してしまう。俺が過去に負った痛みが蘇ってきて、心臓がじくじく疼きだす。
「ねえ」
派手な店内のライトがブレスレットに反射して、傷痕はもう見えない。女王の蕩けるように微笑んだ顔が俺の目の前にある。
「あなたの名前は何ていうの?」
「俺は、ただのヘルプなんで、名前はないです」
「じゃあ私がつけてもいい? そうね、『星夜』はどう? ここは夜も明るくて星が見えない街だけど、あなたは何だか、きらきらしていて星みたいだから」
「星夜――」
耳慣れないはずのその名前が、女王の手元からふっと俺の掌に落ちてくる。空から零れた火球の尾のように。
「ええ源氏名やんか、星夜。決定やな。かまいませんかオーナー」
「かっこよすぎやしねえか? まあ、女王様が名づけ親ならハクもつくだろう。星夜、お前はこれから、店にいる時はこの名を使え。名字は俺が考えておいてやる」
「オーナー。センス、ここはセンス重視でよろしゅう頼みますよ」
「……何かちょっと、むずむずして、恥かしいんですけど。俺に名前をつけてくれてありがとうございます」
「ルネスの一番星になれるかどうかはあなた次第。――蘇芳さん。私、星夜を永久指名するわ」
「え……っ」
「ちょっ! 嘘だろ!」
「俺たちを差し置いて、ルカ様が新人ホストを選ぶなんて……っ!」
VIPルームが騒然とする。いったい何が起きたのか、俺にはまったく分からなかった。
フリー専門の女王。特定のキャストを指名しないはずの彼女が、俺を担当にする、と言っている。
「あ、あの、本当に俺でいいんですか?」
「ええ。いい子に出会えてよかった。私のことはルカと呼んでね」
「ルカ、さん」
「よっしゃあ女王様のお眼鏡にかなったで! 喜べ星夜! 祭りや!」
「いつものシャンパンをもらえる? 一緒に乾杯したいの。星夜もグラスだけ付き合って」
名無しのヘルプに名前をくれた女王、ルカは俺の初めての指名客だった。