第3章 6
「ほう、俺にガンつけてくるか。おとなしそうなわりに根性があるな、お前」
睨まれてただ瞬きができないだけの俺に、オーナーはにやりと笑って言った。唇を斜めに歪ませた男くさい微笑みと、仄かに甘い煙草の香りが、大人の男の陰影を深めている。
「ホストをやるなら俺の店にしておけ。この街にルネスの上はないからな」
「は、い」
完全に気圧されて返事をしてしまった。顎の先から首筋が痺れて掠れた声しか出ない。
「オーナー、もう許したってください。俺の方がチビりそうや」
「ったく。――悪かったな、ぼうやのツラを真っ青にさせちまった。カウンターであったかいものでも出してもらいな」
オーナーの節くれ立った指が、俺の唇をからかうように撫でていく。柔らかい皮膚に感じたオーナーの体温が、どくっと心臓を刺激する。
「……あ……」
心臓から送り出された血が、腹の下の方にすごいスピードで集まっていく。
体がおかしい。悪夢のようなこの感覚を俺は長いこと忘れていた。スラックスの内側で、ままならない欲望がむくりと目を覚ます。
「待たせたな、ルカ。若いもんにたっぷりサービスさせるよ」
「あら棚ボタね。いいものを見させてもらったわ、楽しかった」
オーナーと女王が、キャストたちを引き連れて店の中へと入っていく。首筋にじっとりと汗をかきながら、俺は一歩も動けないままでいた。
「君、ほんまツイとる。ラスボスの面接クリアしてしもたで。今日はもうヘルプも雑用もせんでええから、オーナーのお言葉に甘えて休んどき。ようがんばった、また後でな」
矢坂は俺にそう耳打ちして、オーナーたちの後を追った。でも彼の言ったことの半分も頭に入ってこなかった。
「……何で……、どうして……っ?」
エントランスに一人で残った俺は、心臓の音に急かされながら、バックヤードのトイレへと駆け込んだ。個室の鍵を固く締めてがくがくする膝を抱える。初めて会った人にたった一瞬触れられただけで、火がついたように体が熱い。
あのオーナーは、男というよりは、オスだ。人間は性欲のあるただの動物なんだと強烈に再認識させる、女どころか男の体まで熱くさせるオス。
恥ずかしい。下着の奥が張って窮屈になってくる。
「……最低、最悪だ……」
俺は不器用にベルトを弛めて、震える手を股間に伸ばした。掌に感じるこの熱を早く消し去りたい。泣きたい思いでする自慰に、気持ちよさなんか微塵も感じなかった。セラミックの便器に白く同化した自己嫌悪の塊を吐き出して、勢いよく水で流す。
「くそっ――。何者なんだよ、あの人」
俺は油断していた。親元で味わった痛みを忘れて、新宿の緩やかな自由を満喫し過ぎた。この街に馴染んだつもりになって、俺の中身は以前と何一つ変わっていなかったことを思い知る。
高校の担任に味わわされた、あの時の罪悪感が、再び俺を苛んだ。オーナー自身にまったく性的な意図がなくても、俺の体は反応してしまう。彼の気まぐれな行動で火をつけられた、いやらしいこの体を抱えて、これからも生きて行かなくてはならない。
自慰で欲望を静めるしかなかった俺は惨めな奴だ。この街で暮らし始めても、孤独な秘密を抱えていることは変わらない。汚らしい、と吐き捨てた母親の声が聞こえる。もう息子とは思わない、と自分に背を向けた父親の姿が思い浮かぶ。
「……あんな気持ちになるのは、二度と嫌だ」
過去の苦い思い出に引き摺り込まれる前に、真っ赤になるほど繰り返し手を洗ってトイレを出た。バックヤードの通路をよろよろ歩いていると、休憩中のキャストが煙草を吸いながら立ち話をしていた。
「VIPルーム盛り上がってんな。オーナーまで同伴させてボトル何本空けるんだ、あれ」
「ルカ様の金庫は底なしだからなあ。さすが吉原の高級店のナンバー1」
「あの人ソープ嬢だもんな。体売って稼いだ金を投資で何倍も増やしてるって、すげえよ」
小声で話していても、インパクトのある単語は耳に残る。俺は何も聞こえなかったふりをして、マナー違反をしているキャストの横を通り過ぎた。
女王の正体はソープ嬢。何をして稼ぐ仕事なのか、十八歳の俺でもイメージできる。
「――ヘルプ君、カウンターに君のドリンク出してるよ。オーナーの奢りね」
「あ……すいません。いただきます」
店内全般の采配をしているマネージャーに促されて、カウンターのスツールに腰を下ろした。ミルクティーで満たされたカップから、湯気とほっとする香りが立ち昇る。
ボトルや氷の受け渡しに使っているそのカウンターと、ホールから一段高いフロアにあるVIPルームの間を、キャストが何人も忙しそうに往復していた。
「オーダーすごそうですね」
「今ちょうど十本目のアルマン・ド・ロゼが出たところ。ルカ様はシャンパンなら、ドンペリよりこっちの方がお好みなんだよね」
VIPルームの豪華なドアは閉められていて、中の様子は見えない。体を売って得た金を女王は何故シャンパンに換えるのだろう。飲んでしまえばなくなってしまう、水と変わらないものなのに。
「……そのシャンパンって、いくらなんですか」
「一本七十万」
「バカみたい――」
心底そう思ったら、気が抜けて笑いが込み上げてきた。
女王も、俺も、どこかが歪だ。もしかしたらその歪に欠けた部分を埋めるために、今夜のシャンパンとミルクティーは存在するのかもしれなかった。




