第3章 4
「失礼します。矢坂さん、女王様のご到着までもう間もなくです」
「はいよ。ほな出迎えに行こか。君もおいで」
休憩室のソファから矢坂は腰を上げた。前の接客が終わってまだ五分も休んでいない。
「女王って?」
「ルカ様や。ルネスきってのエグい太客やで」
「太ってるお客さん……?」
「違うよ。太い金脈を持ってるゲストのこと」
「へー、知らなかった」
矢坂を呼びに来たホール主任が、親切に教えてくれた。
「女王様は一晩でいつも五百万くらいは落としていくんだ」
「ごひゃくっ?!」
一人の客が支払う金額の大きさに、俺は仰天した。
「す、すごいんですね。何をしてる人なんだろ……」
「ゲストへの詮索はマナー違反や。職業や住所、個人情報は聞いたらあかん。ゲストから言うてくれるんは問題ないけど、キャストどうしで噂するんもNGや。気い付けといてな」
「はい」
「ええ返事。せやけど君のネクタイ似合うてないな。こっちと交換しとき」
バックヤードには、キャストが自由に使っていい服や小物が用意されている。借りたスーツを着ていた俺に、矢坂は彼のロッカーから引っ張り出したブルーのネクタイを勧めてきた。
「これなら君がつけとるブレスレットと合うやろ。差し色やな」
俺の首元から、しゅるりと滑るようにネクタイが引き抜かれる。器用な矢坂の手はやっぱり手品師にしか見えない。
「アクセとか、好きなん?」
「……これは……」
照れくさい思いで、俺は左手首のブレスレットを見た。二ヶ月前に新宿にやって来て、デリバリーの収入で初めて買ったそれ。両親との関係が壊れる前に毎月もらっていた小遣いよりも、自力で稼いだ金額は少なかったのに、むしょうに嬉しかった。
「これは親元を離れた記念というか、自分の背中を押す、みたいな。デリバリーの仕事中に見付けた安物だけど、欲しくなったんで」
「かっこええ話やん。君、ガキんちょやけど男らしいとこあるよな。そういうの大事やと思うで」
路地裏の小さな店で買ったターコイズのブレスレットは、一人で新宿で生きている証し、俺の決意表明のようなものだった。
「よっしゃ、こんなもんやろ」
ドレッサーの鏡に俺が映っている。矢坂が結んでくれたネクタイは、自分が結んだよりもパリッとしていて、ターコイズともよく合っていた。
「ありがとうございました」
「正式にキャストになってくれたら、毎晩スタイリストもつくし、店から服代も支給される。ルネスはほんまに待遇のええ店なんよ」
「あ、はあ」
「ヘルプ君、騙されるなよ。待遇がいいのはナンバー持ちだけだから」
「主任、そうやってすぐバラすんやめてくれへん?」
矢坂が文句を言うと、ホール主任はくすっと笑った。
「エントランスにキャストのスチール写真を飾ってるだろ? あれが売上トップクラスの連中ね。ちなみに矢坂さんは先月三位だったから、今月中はナンバー3って呼んであげて」
「何十人もキャストがいるのに三位って、相当すごいんじゃないんですか?」
「そう思うやろ? 上には上がおんのよ。今晩巻き返したるわ、打倒ナンバー1」
矢坂が意気揚々と休憩室を出て行く。彼の後ろにくっついてバックヤードからエントランスへ向かっていると、他のキャストもぞろぞろ女王の出迎えに集まり始めた。