第3章 3
「マッハ君、このカクテル1番テーブルに運んで。あと3番テーブルにミネの追加」
「はいっ」
「おーいバイト、煙草買ってきて。マルボロメンソール」
「あ、はいっ」
「おいそこの雑用、トイレのアメニティが切れてるぞ。チェックしとけよ」
「すいませんっ、すぐにやります」
ルネスのホストたちは、俺のことを好き勝手な名前で呼ぶ。一週間ほど前デリバリーの配達中に矢坂に呼び止められて、同意をした覚えがないまま始まった体験入店は、今日で二回目だ。ホストたちの休憩室があるバックヤードの掃除や、買い物の御用聞きなど、こまごました雑用をこなしている。
超がつく人気店だからか、店内はいつも満員だ。客から年齢をからかわれることはあっても、無理に酒を勧められることはない。でもテーブルで水割りを作ったり、客を会話で盛り上げたりするヘルプの仕事は、女と距離を置きたい俺には負担が重かった。
「俺以外のキャストにもヘルプについてやってや。君、ルックスがええし真面目やから重宝すんねん」
気さくのお手本のような関西弁で、矢坂はそう言った。店内ではホストのことをキャスト、客のことをゲストと呼ぶと彼に教えられた。使うグラスはそれぞれキャスタン、ゲスタンという。タンはタンブラーの略だ。
「無理です。矢坂さんを手伝うだけでもういっぱいいっぱいなんで」
「口では何やかんや言うても、連絡入れたら店に来てくれたやん。ええ子やわあ」
「それは、電話に出ないと矢坂さんがしつこいから……」
矢坂名義のスマートフォンを強制的に持たされたせいで、マッハフーズと併せて二台になってしまった。少し前まで欲しくてたまらなかった新宿暮らしの必須アイテムなのに、今はちょっと持て余している。
「雑用なんて、別に俺じゃなくても誰でもできる仕事ですよ」
「要領ようやるには、頭の良さがいんねん」
休憩用のソファに座って、矢坂はペットボトルの水を一口飲んだ。喫煙所を兼ねたバックヤードには、煙草の香りが漂っている。
「ルネスにはもう慣れたやろ?」
「慣れないです。まだ二回目だし、夜通しバカ騒ぎして、みんな何が楽しいのかなって」
「おうおう辛辣やなあ。まだ酒も飲めへんお子ちゃまには、夜の世界はハードル高いか」
「矢坂さん、俺はいつまでここで働かなきゃいけないんですか?」
「別に強制労働はさせてへんよ。君、デリバリーの仕事を続けたいん? ルネスほどは稼げへんやろ?」
確かに報酬に関しては、矢坂の言うとおりだ。でもホストという特殊な職業に対して、俺はわだかまりを持っている。
「俺には理解できないんです。お酒を出して、ちょっとおしゃべりに付き合っただけで、何でお客さんはあんなにたくさん料金を払うんですか?」
俺は率直な疑問を矢坂にぶつけた。
ルネスでは毎晩、とんでもない多額の金が飛び交う。別に有名人でも何でもない、ただのホストが注いだ酒というだけで、ありえないほどの付加価値がつくのだ。
「それがホストクラブのシステムやからな。楽しゅう過ごす時間を買うために、ゲストは金を払うんや」
何でもないことのように矢坂は言う。彼は五年ほどホストをやっているらしく、一般人の俺の金銭感覚を笑い飛ばした。
「ゲストが満足しはるなら、どんな料金設定でも許される。夢のある職場やろ」
男が女を騙して金を貢がせている。ホストたちの接客が、俺にはそんな風に見えて仕方ない。納得して金を払う女たちの心理も、俺には理解不能だ。
「どこのホストクラブも、同じなんですか?」
「せやなあ、基本の接客方法やコンセプトは変われへん。せやけど歌舞伎町で一番稼げるのはこのルネスや。他の店に興味持っても時間の無駄やで」
「別に、興味があるわけじゃないです」
「俺は心配なんよ。他の店が、君を狙ってスカウトするんやないかって」
「俺、女の人とうまく話せないし、ホストは向いてないですよ」
「そう言う奴ほどホストとして大成すんねん。そうや、君の名刺も発注せんとな」
「……いりません。長続きしないし、俺にはデリバリーの方が合ってるから」
前にもらった矢坂の名刺は、とっくにネットカフェの個室のゴミ箱に放り込んだ。そう言えば彼は、俺の名前を一度も聞いてこない。体験入店は身分証が不要で、報酬は店からではなく何故か矢坂が直接払ってくれる。名前がなくても困らない雑用ばかりだから、俺も特に気にしなかった。