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「…ん、う、ん……」
頭が重いような気がする。そう思い、頭をさすりながら起き上がる。ぼんやりと目を開き、ハッとする。そうだ、私は魔界に来ていて、それから外灯に出会って、目を、いや火を見ていたら、意識を失って…と考え周囲を見渡す。
「ここは……?」
外灯と出会った場所は真っ暗で何もなかったが、ここは紛れもなく城の中のようで、大きな窓から薄暗い灯りが差し込んでいる。埃っぽいような気がしたが気のせいで、周囲に置いてあるソファや棚などは随分と年季が入っているが、清潔に保たれている。そしてその時にやっと自分が机の上で横たわっていたことに気がつく。なぜ、机の上に?と思いながら、机から降りる。
ここはいわゆる魔王城と言うことだろうが、なんの気配もない。人の気配がないのはもちろんだが、それ以外の生物の気配すらないのだ。だだっ広い空間が広がっている。
机の横に立ち、再度あたりを見渡す。年季の入った多くの家具たちが、先ほどまで忘れていた恐怖を呼び起こす。
「お帰りなさい」
急に頭上から声がする。バッと瞬間的に声をする方に振り返る。
「…ん?ああ、違うか、こんにちは、だったかな。」
そこで、何かが空中に浮いていることに気がついた。
……手だ。
人の手の形状と同じと言って差し支えないが、指の一本一本は異様に長く、そして細い。色も真っ黒であり、指先は細く尖っているが、それが爪なのかどうかは判断がつかない。そしてその手は肘から指先までしかない。その手が3つ、一定の距離を空けて空中に浮いている。
思わず、恐怖で息を呑む。何もできずにいると、腕の1つ、その顔と思しき付近の空気が蜃気楼のようにぐにゃりと歪む。いや実際には歪んでいないのかもしれないが、ヴェネットには歪んでいるように見えた。そして、目も鼻も口も何も見えないのに笑っているように感じた。
「どちら、さま、でしょうか…?」
かろうじて絞り出した声で尋ねる。得体の知れないものと会話をしている。人ならざる雰囲気を醸し出すそれらを見て、恐怖でガチガチと奥歯がなる。
「ああ、そうか。そうだ挨拶、そして名を名乗らねばならないのだったな。私は魔王と名がついているものだ」
3つの浮いている腕の真ん中の1つが、床と平行になるように動く。腕以外見えないのに、まさにそこに体があり、体をくの字に折り曲げ、腕をお腹のあたりに床と平行に沿わせ、まるで執事のようにおじきをしている様子がありありと目に浮かぶ。見えないはずの空気が形をかえ、彼?彼女?の体を形作っているようだ。
「…魔王陛下。ご、ご無礼をお許しください。わ、私はヴェネットと、申し、ます。た、大変不躾では、ご、ございますが、魔王陛下にお願いがあっ、あり、尋ねて、まいりました」
膝をつき、頭を垂れる。緊張のためか口の中がカラカラに乾き、うまく喋れない。魔界における礼儀作法などがあるのかどうかすらわからないが、出来る限り無礼をはたらかないように気をつけ言葉を紡ぐ。これであっているのかどうかわからず、心拍数は上がり、額からは滝のような汗が流れ落ちる。相手は魔王だ。人間側の常識など通じないだろう。いつ機嫌をそこね、首を刎ねられてもおかしくはない。
「そうか。では、ヴェネットよ、願いはなんだ?」
「…ここに、す、住まわせて、いただきたい、のです」
言い切った瞬間にさらに汗がどっと吹き出る。恐ろしい。今は平和を保っているが、遥か昔は人間と対立していたのだ。人間側に対して負の感情を抱いていてもおかしくはない。今までの会話の中では特に悪意は感じられなかったが、ヴェネットの素っ頓狂な願いに対して業を煮やすのではないかと気がきではない。頭を上げることもできず、床に溜まっていく自分の汗を見つめ、じっと祈るように魔王の返答を待つ。
「なんだ、そんなことか。好きにすればいい」
「へ…?」
あまりにも軽い許しの返答に、驚きのあまり顔を上げると同時に変な声が出る。視線上にはいつの間にか近づいていた魔王であろう腕がフラフラとゆれている。思わず声が出そうになるが、ぐっと堪える。
「ほ、本当に、よ、宜しいのでしょうか…?私は人間ですし、ここに、す、住みたいわけも何も話しては、おりません。も、もしかしたら、あ、あなた方を倒すために、せっ、潜入したのかも知れないのですよ…?」
なぜ自分はこんな怪しくなるようなことをべらべらと喋っているのだろうか。しかし、あまりにも簡単に受け入れられてしまったことで、これでいいのかと感じてしまったのだ。
「そんなこと、問題でも何でもない。変な行動をしたら、殺せばいいだけだろう?」
思わず息が止まる。
そして、その魔王の発言と共にずしりと空気が重くなるのを感じる。これは比喩表現ではなく、実際に空気が重いのだ。ヴェネットの周囲にまとわりつく空気が重くのしかかり、みじろぎひとつできない。
「人間というものは空気がないと動かなくなるのだろう?」
ヴェネットの目の前で揺れる真っ黒い腕が、細長い指を窮屈そうに折りたたみながら拳を握る。その瞬間、息が詰まる。パクパクと必死に口を動かしても、空気は酸素は肺に流れ込まず、恐怖と苦痛が体を支配する。
「こうやって少しすれば動かなくなる。簡単なことだ」
意図せず瞳から涙が溢れる。
苦しい!苦しい!息が吸えない!怖い、死ぬ、助けて!死にたくない!!
感情、思考がまとまらない。様々な感情が湧いては消えていく。助けてと手を伸ばそうとしても、重くまとわりつく空気のせいで指一本動かすことができない。
「だから、お前が何を考えていても興味はない。わかっただろう?…おっと、そうか空気がないと言葉も出ないのか」
「がっ、はあ!!ヒー、ヒー、ヒー、ごほっ、ごほごほ!」
空気が肺に浸透していく。汗か涙か唾液か区別がつかない液体がぼたぼたと床に垂れる。呼吸ができるようになったと同時に体の拘束も解消された。
息が出来ることにこれほど感謝したことは、人生で初めてだ。そして、これほどまでの恐怖を味わったのも、ヴェネットの人生で初めてだった。
ばけもの
彼女の脳内に浮かんだのは、この4文字だった。
怖い、怖い、怖い、怖い…!
ぼろぼろと涙が頬を伝う。あまりの恐ろしさに声が出ない。床に崩れ落ち、額を床に擦り付け、ヴェネットは声も上げずにただただ泣いた。死を眼前にして、恐怖を感じない人間などいないだろう。
「どうした?人間よ?何かあったのか?」
泣き崩れたヴェネットの頭上から声が聞こえる。
何かあった?今まさに殺されそうになったのに何を言っているのか?
ぼろぼろと涙を流しながら、あまりにも的外れな発言に、恐怖と同時に怒りも湧いてくる。文句の一つでも言いたい気持ちにさえなったが、先ほどの恐怖がまとわりつき、まだ声が出せない。
ガタガタと震える体を抱きしめて、かろうじて顔だけ上げる。
眼前にはやはり黒い腕が浮いていた。しかし、先ほどと違うのは、魔王と思われる腕だけでなく、他の腕までも彼女に近づいていたのだ。そして、彼らを形作る空気が心配そうな表情を浮かべている。
「だ、だい、じょうぶ、ですわ…」
なんとか声を絞り出す。その返答を聞き、彼らの空気が緩むのを肌で感じる。
「ああ、すまない。力加減が分からなくてねぇ。とにかくここに住むのは問題はない。気の済むまで、いてくれればいいよ」
3つの腕が彼女からすっと離れていき、また空中に浮かぶ。
「では、またあとで」
魔王はそう言うと、細長い指をぱちんとならす。その瞬間、少しの風が吹き、彼らは跡形もなく消えた。
こうして、ヴェネットの波瀾万丈な魔界生活が始まりをつげた。