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「はあ…。」
ヴェネットは一つため息をつく。あまりにも気が重い。
すっと顔を上げ、ヴェネットの身長の倍以上はある柵を見つめる。その柵の奥にはおどろおどろしい城がそびえ立っている。
「はあ。」
ヴェネットはもう一度ため息を吐き、マリーとの今朝の会話を思い出す。
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「ま、魔界って、マリーどうしたの?魔界なんて人間が住む場所じゃないわ。そんな怖いところに…」
「わかってるよ。でも、もうこれしかないと思うんだ」
マリーのあまりにも突拍子のない発言に、涙は完全に止まり、なんだか気持ちも落ち着いてきた。
「今この国から逃げられたとしても、あいつはいつまでもお前のことを追ってくるだろう。そうなったらお前はいつまで経ってもあいつのことを気にかけて、安心して暮らすとはできないと思う」
真剣な眼差しでマリーはヴェネットに言う。
ヴェネットもそのことにはなんとなく気づいていた。この危機を脱したとしても、彼に追われ続けるに違いないと。そして、それはその言葉のままの意味の追われると精神的な意味での追われるという2つ意味があるとヴェネットは考えていた。
もしヴィヴィスがヴェネットを諦めたとしても、そのことを真に知り得るのはヴィヴィス本人だけである。いくらヴィヴィスがヴェネットのことを諦めた、もう眼中にないと言ってもそれが嘘か本当かを他人が判断するのは大変難しい。特にヴィヴィスは表面を繕うことが得意であり、上記のような嘘を吐き、彼女の油断を誘い、そして彼女を捕らえることも難しくはないだろう。そして、その可能性を排除できない限り彼女に真の安寧が訪れることはないだろう。たとえ本当にヴィヴィスがヴェネットを諦めたとしても、ヴェネットが彼のその言葉が本当かどうかを確かめる方法はないし、その時は本当だとしても、時間が経てばヴェネットへの好意が蘇るかもしれない。
ヴェネットはずっと考えないようにしてきたが、本当は頭の隅で気づいていた。この国を出て、どこか遠くの知らない土地で暮らしていても、永遠に不安を拭えないことを。安寧を得れないことを。
「でも、でも、だからって魔界なんて、私…」
「私も嫌だよ。魔界にお前を行かせるなんて、でも魔界だったら“不戦の契り“があるから貴族であっても手出しはできないだろう?」
「不戦の、契り…」
この世界には人間だけでなく、魔物と言われる、いわゆる化け物も住んでおり、そして魔物の住む場所一体を魔界と呼ぶ。遠い昔は人間と魔物は争いを繰り返していたが、今はそれも落ち着き平和を保っている。それは “不戦の契り“ のおかげである。誰がどのようにしてこの契約を結んだのかはわからないが、この契約に従い、魔物は人間を攻撃してはならず、また人間も魔物を攻撃してはならないと取り決められている。
「不戦の契りでは、互いに攻撃をしてはならないと取り決められてはいるが、 "魔界に入ってはならない" と取り決められているわけではない。それにあのクソ王子もお前がまさか魔界に逃げているとは思わないだろう。それにあいつはあれでもこの国の第二王子だ。国王様が魔界に乗り込むなんて許すわけないだろうし、もし、あいつが自分の代わりに兵を向かわせたとしても、それが宣戦布告と取られる可能性だってある。だけど、ヴェネット、お前はもう貴族でもなんでもないし、こう言っちゃあなんだが、か弱い乙女だ。もし、お前が魔界に行っても、魔界の奴らに宣戦布告と受け取られる可能性も低いだろう。」
「でも、でも、私…」
マリーの言うこともわかる。だが、魔界とは恐ろしく酷い場所であると教育を受けてきたヴェネットにとっては、もちろんすぐに頷くことはできなかった。
「…悪い。魔界に行くなんて、どうかしてたよな」
ヴェネットの様子を見てマリーは冷静になったのか、ヴェネットの肩から手を離すと視線をヴェネットから外し、ふーっと息を吐き出す。
ヴェネットは何も言えずに俯く。まだ頭が混乱している。いきなり提示された新しい選択肢があまりにも突拍子がなく、それを含めても何が一番良い選択肢なのか判断がつかないのだ。
マリーは右手で目頭を押さえ、もう一度息を吐き出す。そして顔をあげ、ヴェネットを見つめる。
「私と一緒に逃げよう」
「マリー」
「この検閲もいつか、終わる。そしたらその隙にこの国を抜けて遠くに行こう。そんで一緒に時計屋をしようよ。嫌だったら、そうだな、飯屋でも良いし。また見つかったらさ、一緒にまた逃げれば良いしさ」
優しい顔でマリーはヴェネットに語りかける。あまりにも魅力的な提案で頷きそうになるが、もう十分マリーには迷惑をかけている。これ以上迷惑をかけるわけにはいかないと、フルフルと首を横に振る。
「…きっと楽しいよ。私たち話も合うしさ。な?」
マリーの提案を聞きながら、何も答えられずにいる。マリーはふっと笑い、ヴェネットから目線を外し、部屋の中をくるりと見渡す。愛おしそうに。ヴェネットはその表情を見てハッとする。彼女と一緒に逃げると言うことは、彼女に多くのものを捨てさせると言うことである。このマリーの家、城には彼女の愛すべき宝物が多く存在する。それを彼女に捨てさせることなんてできないし、何よりも自由を愛するマリーにヴェネットの都合で自由を奪う権利などはないのだ。それにきっと彼女と逃げ仰せても、見つかった時彼女にどんな処罰が下されるのかわからない。
「…私行くわ。」
「え?」
「マリー、私行くわ!魔界へ!」
驚いたマリーの顔を見ながら、ヴェネットの決心は固まっていた。
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と、啖呵を切ってここ魔界の入り口まできたものの、ヴェネットの決心は全然固まっていなかった。
「はあ…。」
何度目かわからないため息を吐き出す。マリーには魔界に行くと言ったものの、いざ入ろうとするとどうしても躊躇ってしまう。
マリーに魔界へ行くと啖呵を切った後、マリーは自分が勧めたことも忘れた様子で必死に止めてきた。まあ、当たり前だろう。魔界に行こうとする人間なんていないし、基本的には魔界には近寄らないようにと教えられて育ってきた人がほとんどだ。魔界とはひどく恐ろしい場所で人間が住める場所ではないと。ただ平民の一部ではそうではないと教えを受けてきた人もいるらしい。これはマリーが聞いた話だが、魔界の近くに住む人々は魔物はこちらから危害を加えなければ襲ってくることもなく、むしろおだやかで優しい性格の魔物がほとんどであると。この話を知っていたからマリーは魔界へ行こうと言った突拍子のない提案をしてきたのである。正直その言葉を鵜呑みにするわけではないが、このままうだうだと迷っていても仕方ないと思ったのだ。これ以上マリーにも迷惑をかけれないし、このままヴィヴィスから逃げられるとも思っていない。魔界に逃げ込むことが最善の選択ではないかもしれないが、今の状況では一番いいと判断した。
マリーは何度も悪かった、一緒に逃げようと言ってくれたが、何度言われても頷くことはできなかった。ヴェネットはあまりにも多くの人に迷惑をかけてきたと自覚しており、その中で1番大切な友人であるマリーにまでこれ以上迷惑をかけたくなかったのだ。ヴェネットは何も悪くないとマリーは言うが、それでも迷惑をかけているのは紛れもない事実だ。
マリーは何度問いかけても、ヴェネットの考えが変わらないことを悟り、自分も一緒に行くと言った。それこそ本末転倒だ。自由を愛するマリーから自由を奪いたくないのに、一緒に行けば自由を奪うことになる。マリーはそうじゃないと、全て自分の選択の上だと言ってくれるだろうが、ヴェネット自身が納得できないのだ。
万が一自分と一緒にいるところを見られたらまずいからと、魔界まで一緒に着いていこうとするマリーをなんとか説き伏せて、ここまでやってきた。本当に、こんなに自分の身を案じてくれる友人を持てて、幸せだと思う。
そんなことを思いながら、再度魔王城を見つめる。恐ろしいと心が叫んでいる。ただそれ以上にヴィヴィスに自分の自由を奪われる方が嫌だった。ヴェネットだって自由を愛していた。いつでも規則にがんじがらめの貴族社会では息がしづらかった。そして、ヴィヴィスに捕まることでさらに息がしづらくなってしまうのは嫌だった。
「よし…!」
気合いをいれ、ぐっと柵に力を入れる。ぎいっと嫌な音をたて柵が開く。案外簡単に開くのだと思いながら、体の中で暴れ回る心臓を押さえ、呼吸を整える。そして、恐る恐る足を一歩魔界の敷地内に踏み入れる。
「え…?」
足が地面についた瞬間、周囲が真っ暗になる。まだ日が出ている時間にも関わらずだ。しかも、日が落ちたとかそう言うわけではない。本当に真っ暗なのだ。先ほどまで見えていた柵も聳え立っていた城も、おどろどろしく植えられていた木々も何もかも見えないのだ。上下左右すべて、ただの黒なのだ。
「え、うそ…、どう言うこと、ど、どうしたら」
パニックになり、すぐに引き返そうとするが、その瞬間、
「人間か?」
頭上からなんとも言えない低い声が響く。
途端に体が硬直し、動かなくなる。それでもなんとか、恐ろしさに支配された体を、動かし、ギギギっと顔を声のした方に向ける。
そこには "外灯" が立っていた。比喩ではなく、本当に外灯が立っていたのだ。細長い柱の上にランタンが付けられ、そのランタンの中で火がゆらゆらと揺れている。
ヴェネットは何も答えられずに、ただただその外灯を見つめる。
「…人の子だな?」
火がまるで口のように、聞こえる言葉とシンクロするようにゆらゆらと揺れる。
「…は、い」
何が起こっているかわからず、絞り出した声はたった2文字だけだった。
ぎいっと火が彼女の顔を覗き込むように近づく。火がまるで目のようにじっと彼女を詮索するように揺れて見つめる。
「魔王様に会うのか?」
さらに外灯は質問をする。
正直何も考えていなかったが、こちらの世界に国王がいるように、魔界にも魔王がいるのは当然だと気づき、瞬時に「ぜ、ぜひ、お会いしたいわ」と口にする。魔界に人間である自分を住まわせてほしいなんて素っ頓狂なお願いは、魔界のトップである魔王にお願いするのが一番だと考えたからだ。
ランタンの中の火が笑ったようにゆらりと揺れる。
「目を見なさい」
目なんてどこにもないのに、まるでそこが目であることが当然であったようにヴェネットはランタンの中の火を見つめる。ゆらゆらと赤と黄色が揺らぎ、オレンジが時折顔をのぞかせる。だんだんと体中を占めていた恐怖心が和らいでくる。そしてその揺らぎの中に微かな青を見つけた時、ヴェネットの意識は途絶えた。