砂賀街道
砂賀藩が生糸を産出していたのは有名な話だ。
ただ、ほかにも木材や石材といったものも生産している。
そこで問題となるのが、市場への輸送だ。
砂賀藩は岡山県と兵庫県の県境に位置している。
江戸時代までは美作国砂賀藩であった。
場所としては、要は山間にあるということである。
市場となる都市圏までは山をいくつか超えていく必要があった。
そして砂賀藩が成立して以来の悲願として、まずは岡山との通路の確保とされた。
室町後期にはすでに美作国の国衙と砂賀藩の藩庁地を繋ぐ回廊を竣工。
しかしそこからは独自の街道を作ることはなかった。
話が変わるのは戦国時代中期ごろ。
このころにもなると当然全国があれに荒れており、砂賀藩と言えどもその例外ではなかった。
しかし外へと向かうことよりも内を育てることにしていた砂賀藩の当時の藩主は、これを好機として一気に岡山までつながるための街道を作ることにした。
山陽道へとつなげてしまえば、さらなる市場開拓ができるとした判断である。
山々を切り開き、どこにでもいる山賊や現地の人々を懐柔したりときによっては排除したりして道を切り開いていく。
そして通称の砂賀往還となる街道ができた。
ルートとしては砂賀藩庁からはじまり、国衙があった津山市を通り、現在の国道53号とJR津山線をたどって岡山市内へと入ることになっていた。
途中1カ所、津山と砂賀藩の間に関所が設けられ、ここが宿場町となる。
さらに江戸時代へと入るとこれが脇街道の一つとされ、さらに日本海側にある鳥取へとつながるための道が作られることになった。
これは特に区別が必要な限りに北砂賀往還と呼ばれることとなり、砂賀藩からはじまり、今の西粟倉村を通過し、そこからは国道373号や国道53号の道路に近いルートを通ることとなっていた。
南北交通の要となっていたが、江戸時代中期に津山から直接北砂賀往還へとつながるための道が開発されると、砂賀藩はもともとの目的であった物資の輸送路としての役割に徹することとなる。
なお、狭義の砂賀往還とされるのは戦国時代までにできた南側の部分の実であり、北砂賀往還を含める場合には、砂賀街道と呼ばれることがあった。
砂賀藩の領内では石畳の部分もあり、当時としては極めて斬新なデザインであった。
現在でも、砂賀藩の城下町には石畳で舗装されている部分があり、室町後期から今に伝わる舗装道路としてよく知られている。