悪夢
月の映り込む池。不夜城の皇帝の宮殿。池に舟を浮かべて詩歌をやる。池とは云うが、それは広大でそしてゆるやかに流れがある。舟の上の席次はとても低い。子爵程度の席次でしかない。そこでは、小国の姫ならば一度は夢想する皇帝陛下やあるいは皇子殿下の目に留まって、娶っていただいてついでに生国がより高い位で取り立ててもらえる都合のいい妄想は、もちろん具現となることはない。少しでも目に留まっていただきたいから多少色気を出して、それでも作法を外すことなくそつない詩歌。面白くもない酒宴。私を含めた属国の王子や姫君の見栄と焦りと諦念が渦巻いている。対極に帝国の貴族の方々の見下すような視線。ここは気持ちが悪い。真綿に頚を圧迫されて、気絶することすら許されぬ。
学生の身の上ということで陛下から中座を許されて、都の端の自国の館に這う這うの体で帰り着いて、しこたま飲まされた諸々を吐き捨てて。物的に言えば酒であるとかあるいはどこぞの名産であるとかであるけれども。それだけでなく、屈辱であったり或いは怨念。
皇国に300年尽くしてこんな低い扱いか。先祖代々、そして家臣らの奉仕は、この程度の報いしかないのか。そして、それでも皇国には歯向かうことができないことがはっきりとわかる此度の『交換留学』。交換留学で国力の差を見せつけて、従国の王族をして歯向かうことを考えることができなくなるくらいの屈辱を呑ませる。そういったものを、すべて吐き出す。
「300年尽くしてこれか!これが報いか!なめ腐りおって。それに、婚約者の男爵ローゼン・インメイ卿も、あれは何だ。なにが『光栄に思え』、だ。家柄の古さ以外に取り柄がなにもないくせに!」
調度の置き枕を床にたたきつけて、憂さを一切放擲せん。肩から熱量が天に昇っていくのを感じる。
「邸下、いくらこの屋敷の中と云えども、どこから『見られている』かわかりませぬから」
学友としてこの度もこの留学を共にしているマドセン嬢、その柔和な笑み。いつもそれに救われてきた。差し出された手を取ろうとする刹那
「邸下の一挙手一投足が我が国の行き先を決めるのです。それをゆめゆめ忘れてはなりませぬ」
嬢の胸に孔が開き、血肉骨片の綯い交ぜになったものがまき散らされる。足元はどす黒く染まる。私は―
目が覚めた。どうも馬上で寝てしまったようだ。酷い夢だった。うなされていたかと思って周りを見るが、馬を曳く従者も周囲の騎士も兵もまるで気にしていないようだった。気にしている余裕がないともいえようか。敵手が迫るに従って、有形に無形に圧力を受けて夜も寝られず、夜営をせずに夜行軍をしている。夜行軍は気が滅入るものだ。気ばかり急いて、その割に進みはしない。負け戦とは、逃避行とは酸鼻なものだ。勝利のカタルシスなど一切なく、気ばかり急いて疲労ばかり色濃くなっていく。足音や装具の立てる音だけが、胸に沁みる。
みしり
嫌な音がした。
そして、後ろが少しうるさくなった。居ても立ってもおれず、馬から飛び降りる。急な行為に抗議するようにいななくそれをなだめすかして、後ろに駆ける。
「邸下!」
静止の声をふり切って駆ける。騒ぎのもとに行けば、πολύςの車軸が折れて壊れていた。πολύςは本来πολύςβάλλωといって、一基で短時間にたくさんの矢を放つことができるものだ。一基で10から20の弩兵に相当する。その連射に耐えるしなやかな鋼の弓も、その索も、なかのカラクリも、わが国では作ることはもちろん直すことすらかなわない。この戦争が始まる前は、我が国では維持できないから持っていなかったが、戦争が始まってしまってから急いで購入したものだ。どこの国も欲しがるあたりで、だいぶ吹っ掛けられてわずか10基に歳出の2割近くを使った。そして、すでに半数はうしなわれた。攻勢は頓挫したのだ。その後の敵の反攻で今やわが国土は踏み荒らされつつある。そして、いまここでひとつが壊れた。もはや我々に勝ち目などなくなりつつある。その事を象徴しているかのようだ。
「皆のもの何が起きた、説明できる者は報告しろ」
兵の一人が出てきてなにか言おうとしたがそれを遮る。
「兵卒ごときのいいわけを聞きに来たのではない。『説明できる者』が説明しろ」
一歩前に出たものがある。誰だかの従者で見たことがある気がするが知らぬ。襟章を見れば徒兵頭といったところか。少し足らないがまあよろしい。
「邸下、πολύςが壊れました。もうどうにもなりませぬ」
「そうか。そのまま敵手に渡すのも惜しい。焼け。それと、そこの兵卒は越権をした、直ちに鞭で打て。」
「は」
鞭を渡しつつそう命じる。少し戸惑ったように、πολύςを焼くように命じた彼は、それでもあの卒に鞭をくれてやらない。
「どうした。はやく打て。私は相談をしたわけでも懇願したわけでもない。これは命令だぞ。従え。貴様に鞭をくれてやっても構わんのだぞ。われわれは戦争をしている」
ためらいつつ、ようやく打つそれは全く覇気のない、見せしめにふさわしくないものだ。
「どうした。しっかり打たんか。手本にお前にくれてやろうか」
自分ですら嫌になるくらいに嫌味だ。でも、こうするほかを知らずに生きてきた。この価値観で生きてきた。今更ほかに何ができようか。何かを見ているようで何も見ていない目で、秩序のためのそれを流しながら、帰ってこない戦争以前の世界を思う。
勝ち目はないだろう。もし生き残っても虜囚の辱めを受けるか、あるいは国家の転覆か。想像も絶する艱難がある。もし元の通になっても、幼いころから一緒だった学友を失ったことに耐えうるだろうか。いっそ死んだほうが楽かもしれない。でも、それも怖いのだ。私は、もう何もできない。ただ、父がそういったから、それが務めだから。惰性で生きている。
【王都から約60ベルスタ】【夏宮まで約55ベルスタ】
最近忙しく心がささくれているので感想をいただけたら嬉しいです