第20話 鉛のような
ふらりと細い体が傾いた。長い髪がほどけ、カーテンのように流れて行く。それはまるでこちらとあちらを隔てているように見えて、慌ててヴァロは手を伸ばした。ほんの指先がかかるだけで支えられる体は、軽くて傷だらけで。意識を失ったその顔は―――ただただ痛々しい。
ドラコの体を借りていた精霊は、ナハトが意識を失うと興味を無くしたようにいなくなった。取り囲んでいた靄のような精霊も霧散して消えて行く。
「…ギュ?」
何が起きたのかドラコはよく分かっていないようだった。それでも意識を失ったナハトを見て、泣きながら駆け寄り頬に縋り付く。
アッシュも恐る恐る近寄ってきてナハトの頬をぺろりと舐めた。
「…一緒にいてあげて」
そう言ってヴァロはナハトの涙を丁寧に拭い、開いてあったテントを畳んだ。掛け布団代わりに使っていた布を敷いて、その上に寝かせる。そうして今更だが傷の手当てを始めた。
ヴァロの手の傷は、ナハトを連れ去った精霊の元へ辿り着くため、無理に拳を振るった際に出来たものだった。先程までは酷く痛んでいたが、ナハトがかけてくれた花の蜜のおかげで今はもう何ともない。
だが、ナハトの傷はそのままだ。一つ一つ丁寧に手当てしながら精霊の話を反芻する。
あの精霊は、繰り返しナハトの"罪"と言っていた。生まれて来なければ良かった、死んでいればとも。何故、ナハトばかりがこんな目に遭わなければならないのか。
ナハトは命を狙われて、だから逃げたと言っていた。そうして逃げた先にたまたまその魔力があっただけだ。命を狙われたのだ。今ドラコも一緒にいるのだから、ナハトはドラコを守ろうと必死であったはずだ。その行動を罪と言われ、どれだけ悲しかっただろう。それが原因で世界がこうなったと言われ、どれほど苦しかっただろう。
ナハトはただ必死に生きて、魔術師になっただけ。それを、こんなにも責められて―――見ていられなかった。
「ニャア…」
アッシュが頭を押し付けてきた。手が止まっていることに気がついて、傷口にガーゼを当てて包帯を巻く。致命傷は一つもないが、また熱を出してもおかしくないほど身体中傷だらけだ。
恨みと、あの精霊は言っていた。ならばこの傷は、精霊の恨みの証なのだろう。それを受けてでもナハトは自分を確立したかったのだ。何もわからなかった中で得た唯一の手掛かりだったから。
「……」
何も出来ない自分が悔しい。拭っても止まらないナハトの涙が悲しい。それでまた泣いてしまう自分が本当に嫌だと、ヴァロは奥歯を噛んで声を押し殺した。
ナハトが目を覚ますと、炎の向こうから自分を見ているヴァロと視線が合った。
頭の中はぐちゃぐちゃで体も重くて何も考えたくなかったが、手当てされた自分の体と、目の赤いヴァロを見て頭を下げる。
「夜通し番をさせてすまない。手当も…ありがとう」
「ううん、大丈夫だよ」
「私は、どれほど眠っていたのだろうか?」
「えっと…4時間くらいかな」
ヴァロの返事を聞きながら、胸元から時計を出す。丸一日以上眠ってしまっていたらと思うがそんな事はなかったらしい。整理出来ない情報に、脳が悲鳴を上げたのかもしれない。
ドラコがとことこと肩へ登ってきた。頭を頬に押し付けて小さく鳴く。もうしゃべりださないところを見ると元のドラコに戻ったようだ。それに安心して撫でる。
「もう少し寝た方がいいよ」
ヴァロが眉を下げてそう言ってきた。有難いが、眠れる気分ではない。話を聞いた時だって気を失うつもりは無かったが、瞬きをするように意識が途切れてしまったのだ。
ナハトは首を横に振って口を開く。
「私はもういい。代わるから、君が寝てくれ」
「…ううん。俺、今眠くなくて」
疲れた顔をしてよく言うと、ナハトは思った。じっとこちらを見ていて、目を離そうとしない。ナハトは訝しむようにヴァロを見るが、帰ってくるのは困ったような笑顔だけだ。仕方なく小さく息を吐いて立ち上がり、さらりと流れてきた髪に触れる。髪紐が解けたようだがどこへ行ったのだろうか。
「あ、ごめん。ここにあるよ」
「…ああ」
差し出されたそれを受け取ってゆるく髪をまとめる。そして食料を入れた鞄を開けて、幾つかの食材を取り出しながら口を開いた。
「…昨日は、みっともないところを見せたね…」
「みっともない…?そんな事ないよ!だってあれは…!」
「それより、食事はどうする?」
ヴァロが言い切る前に被せるようにナハトが言う。食べるのか食べないのかと、視線を向けられヴァロは視線を彷徨わせた。今の時刻は早朝だ。これから動き回るつもりなら、せめて食事は取っておいたほうがいい。問題はナハトがどうするかだ。
「あ、えっと…ナハトは食べる?」
「…私はいらない」
「そっか。じゃぁ、俺もいいかな。ドラコは?」
「グー」
ドラコも鳴いて首を横に振る。だがそう言った瞬間、ヴァロとドラコの腹から盛大な音がした。しまったと腹を抱えるが、それを見てナハトはまた小さく息を吐き出す。
「…何か作ろう。私も、食べるから…」
「あ、ありがとう」
「ギュー…」
軽くだが、ナハトも食べ物を口にしたのを見てヴァロはほっと息を吐いた。全員が食事を終えるのを待って、今後の行動について問いかけた。
「ナハト、昨日の話だけど…」
「ああ…」
「どうする、つもりなの?」
ナハトはヴァロの方を見向きもせず、ぽつりと呟く。
「探す。私と契約した精霊を探して、契約を破棄する」
「だけど、それをしたらナハトは魔術が…」
「使えなくなるかもしれないね。だけれど、それと天秤にかけるものじゃないだろう」
ナハトはそう言うが、そんな簡単なものではないはずだとヴァロは思う。ナハトは魔術師である事に強いこだわりを持っている。そしてそれは、隣にいたヴァロが一番わかっている事だ。訳がわからない精霊なんかに強制されて諦めていいものではない。
「あの精霊が言ってたことが、全部本当かは分からないじゃないか」
「…それなら、わざわざ嘘をつく理由もないだろう?」
「だけど…!あんな酷い事されて…ナハトが言うこと聞く理由の方がないよ!」
ヴァロの言葉に、ナハトは目を閉じて低く笑った。それを怪訝そうに見ると、呆れたような顔で言う。
「お人好しの君らしくないじゃないか。精霊の話を聞いていただろう?私は加害者で、精霊が恨むのも当然だ。彼らの苦しみに比べたら、私への攻撃など些細なものだよ」
「そんな訳ないだろ!?」
ヴァロが立ち上がって叫ぶが、ナハトはそれをうるさそうに手で払う。
「君が怒る理由もない。これは私がした事の後始末だ。やった事の責任は取らねばならない」
そう言って、ナハトは荷物をまとめ出した。肩にいたドラコをヴァロの荷物の上に下ろし、アッシュを呼んで荷物をくくりつける。話は終わりだと言わんばかりの行動に、ヴァロも立ち上がって呟いた。
「…なら、俺も手伝う」
それはナハトの耳にも届いたようだ。ぴくりと動いていた手が一瞬止まり、ため息が返ってくる。
「君は必要ない。これは、私と精霊たちの話だ。君はドラコを連れてダンジョンを出てくれ」
今度は本気だと、ヴァロは悲しそうにこちらを見上げるドラコを抱き上げた。ヴァロだけでなくドラコまで明確に拒絶された。尻尾を指に絡ませて、同じようにナハトを見る。
数日前にナハトが見せた拒絶は、ナハト自身、多少なりともヴァロたちに対しての期待があるものだった。だからこそ微妙な言い回しで、ヴァロが離れるよう仕向けたのだ。本当についてくるのかと、否定の裏でそう問いかけてくるような言い回しで。
だが、今回は違う。あの精霊がナハトの罪と言ったから、ナハトは責任を感じてヴァロとドラコを遠ざけようとしている。きっとそれには、ヴァロやドラコに対しての後悔もあるのだろう。精霊が口にしたこともそうだが、以前ナハトはつき合わせて済まないと言っていたから―――。
しかし、それならば尚更手伝わないと言う選択肢はない。目を向けると、ドラコは力強く頷いた。それを見てヴァロは口を開く。
「俺が…俺とドラコが勝手に手伝うんだから、ナハトの意思は関係ないよ」
「…ならば私に聞かず、好きにしたらいいだろう…!」
苛立ちからか、そう言ったナハトは眉を顰めていた。
「こちらの気も知らずに勝手ばかり…!」
「勝手なのはナハトだよ。俺たちはパーティで、ドラコはナハトの家族でしょ?」
「だから…!」
「おまえたちの事情などどちらでも良い」
突然第三者の声が聞こえ、ナハトもヴァロも驚いてあたりを見回した。そしてまたドラコが喋っていると気づいて、彼を抱き上げているヴァロの手が変な形で固まる。
「早く探せ。ここでつまらぬ言い争いをするな」
「つまらないって…おまえ…!!」
「…わかった」
ヴァロが怒るが、ナハトは溜息をついて頷いた。そんなナハトの反応に信じられないと視線を向けるが、精霊が乗り移ったドラコは満足そうに答える。
「ならばすぐに行け。おまえの中の精霊の痕跡をたどるがいい」
「わかった。だが…」
返事をして、ナハトはヴァロに抱えられたままのドラコへ、ドラコの体を借りた精霊へと近づいた。ヴァロが驚くほどの冷たい視線を向けて、口を開く。
「わかったが…二度とその子の口を使うな」
「…なんだと?」
「ここには他にも生き物がいる。だというのにわざわざ彼の口を使うなら、私は今すぐにでもここから出て、二度と戻らない」
「おまえ…」
精霊は一度低く唸るように呟くと、しばらくしてするりとドラコから抜けて行った。
精霊が抜け出た事により、ドラコがきょとんとした顔で辺りを見回す。それに手を伸ばしかけて、ナハトはきゅっと拳を握った。
それから4日間、ナハトはヴァロ、ドラコと共にダンジョン内を―――精霊界を飛び回った。約束通り精霊は精霊界の鳥の体を借り、ああしろこうしろと指示を出してくる。
だが指示の内容の大半は、精霊を感じろというなんともざっくりとしたものだ。言われた通りナハトは自分の内に精霊を感じようと努めたが、そもそも今まで精霊とのつながりなど感じた事がないのだ。精霊の魔力と気配は分かるが、己の内に感じるかと言われるとまったく分からなかった。
「ナハト、少し休んだ方がいいよ」
足元がふらついたのを目ざとく見つけたヴァロがそう言ってくる。首を横に振ってそれを拒否すると、同時に精霊が口を出す。
「ならぬ。まだ何も成せていない」
「おまえ…!」
「私のことはいい。…放っておいてくれ」
そう言って、ナハトはまた目を閉じた。
集中しろと精霊は言う。魔力を辿れとも。だが、きっかけがないのだ。己の内にある魔力を探っても、感じるのは自分の魔力ばかりで他のものなど感じない。何の成果も得られぬまま、ただいたずらに時間ばかりが過ぎていく。
体が重く、頭が重く、心も重い。それでもやるべき事、やらなければならない事は分かっている為、ナハトはひたすらに動き続けた。
「まだ、何も感じないのか」
「……」
肩の上で、鳥の体を借りた精霊がそう言う。ヴァロが腹を立ててその度に精霊への非難を口にするが、精霊はヴァロの言葉を一切聞かなかった。とうのナハトが精霊に対して一切の無抵抗である為、ヴァロが一人で文句を言っているような状態だ。
それほど文句を言うなら帰れとナハトが言うが、それを今度はヴァロが無視する。ついて来る事をやめず、ナハトが眠らなければ眠らず、食事も取らない。己の体を使って抵抗するヴァロに怒りが募り、ナハトは始終イライラしていた。
結局、滞在時間いっぱい探し回ったが、ナハトと契約した精霊の痕跡は何一つ見つからなかった。これ以上はいられないため仕方なく出口へと向かう。
すると、ナハトの肩にいた精霊が不機嫌そうに口を開いた。
「どこへ行く?」
「どこへって…外に決まってるだろ」
「何故だ?」
「滞在時間だからだ。俺もナハトももう5日いる。出ないと…」
「それはその小煩い男だけだろう」
言われて、ナハトとヴァロは眉を顰めた。ダンジョンは中に滞在できる時間が決まっている。それが日数にして5日、時間ではおよそ120時間だ。だがよく考えれば、何故そうなのか理由を聞いていない。そう言われたから、そうなのだと思っただけだ。
どう言う事だと問いかけると、精霊は面倒臭そうに答えた。
「体内の魔力に変化があるのはその男だけだ。おまえの魔力に変化はない」
体内魔力の変化、それが滞在時間の理由なのだとしたら、優等種と劣等種では魔力の溜まり方に違いがあるのだろう。
精霊はさらに続ける。
「男、おまえは今、えも言われぬ高揚感に襲われているな」
「…っ!」
図星だった。しばらく前から、ヴァロはなんとも言えない感覚に襲われていた。妙に頭が冴えて、全力で走り出したくなるような―――そんな感覚だ。
「…だったらなんだって言うんだ」
「それは、獣化の前兆だ。おまえたちは長く魔力に晒されると獣化する」
「け、もの…?」
「そうだ。精霊界で獣化するな。早く出ていけ」
そう、精霊は冷たく言い放った。
言われたヴァロは愕然としながらも、ネーヴェ達が滞在時間を繰り返し口にしながら、厳守するよう言いながらその理由を口にしなかった理由がわかった。優等種にとって、獣に例えられることは最大の侮辱だ。注意だったとしても、口にするのは憚られたのだろう。
ヴァロはぶるりと肩を震わせた。込み上げてくる興奮や高揚感がそれだと言われて恐ろしく感じる。だけれど、今はその感覚よりも優先せねばならないことがあった。獣化の前兆と言うならば、今すぐそうなると言うわけではない筈だ。
ナハトに向かって「続けろ」と言い放つ精霊に、ヴァロは問いかけた。
「ナハトの限界時間はいつだ?」
「…私の事はいい。君はドラコを連れて早く…」
「ナハトは黙ってて。答えろよ、いつなんだ」
ナハトを無視してそう問うと、精霊は面倒臭そうに口を開く。
「…おまえたちの感覚で10日だ。外へ出ても、3日ほどで魔力は落ち着くだろう」
そんなに違うのかと、目を伏せた。ヴァロが5日しかこちらにいられないことに対して、ナハトはその倍。さらに、たった3日でまた入ることが出来るとは―――。
さあ早くと促す精霊に、ナハトは頷いて離れていく。ヴァロは肩の上にいるドラコに捕まるよう囁くと、徐に前を歩くナハトの手を掴んだ。掴まれたナハトが反応する前に両手を左手で覆い、そのまま抱え上げ、もう片方の手で騎獣を出した。
「…おまえ…なんのつもりだ?」
「ヴァロくん…!?」
「やっぱり、ナハト全然冷静じゃないよ。ナハトは優等種のフリしてるんだから、5日経って俺しか出てこなかったら大問題になるよ」
ナハトは言葉に詰まった。その通りだ。それにここにあと5日いて、それで契約した精霊を見つけ、契約が破棄できるとは思えない。まだ何もわからないのだから。そうしたらまたここには来なければならないが、期日を破ってしまえば今度は中に入る申請がどれほどの期間で降りるかはわからない。確かに、ヴァロの言う通りだった。
「俺たちは一度出る。また必ず来るから、文句を言うな」
そう言ってヴァロはジリジリ下がった。精霊が「おまえだけ出ろ」と繰り返し言うが、ヴァロには聞く気はない。
ざわりと森が揺れた。草木が生き物のように揺らめき、ヴァロを狙う。
「やめろヴァロくん!彼らを怒らせては…!」
ナハトが叫んだ瞬間、ヴァロは騎獣の背に跨った。
それに、精霊が忌々しそうに呟く。
「…それを置いていけ…!」
「うるさい!俺の言うことを聞かないなら…」
ふわりと騎獣が浮き上がる。伸びて来た蔦や葉を、空いた手で叩き落して上空へ逃げた。精霊が飛んできてけたたましく鳴く。
「このままナハトを連れ去って2度とここには来させない!それが嫌なら俺の言う通りにしろ!」
「ヴァロくん…!」
「ごめん、ナハト。でも、これ以上ナハトが自分を蔑ろにするのは見てられないよ!」
ヴァロはどんどん精霊から離れる。
それを精霊は射殺さんばかりに睨みつけていたが、一度大きく鳥の声で鳴くと、ばさばさと飛び去っていった。
どうやら精霊の方は納得してくれたようだ。次の問題は、ナハトである。出なければいけない理由に納得はしてくれたようだが、非難めいた視線を感じる。だから手を拘束したままで、足も―――と、そこまで考えて足の仕込みナイフの飾りにはなんの対処もしていなかったことに気がついた。だが抱えて振り回したのと、疲労とでそこまで頭はまわらないようだ。尚更おいて行くことなどできない。
その代わりに瞳と口で、ヴァロに訴えてくる。
「どういうつもりだ!私の事は放っておけと言っただろう!」
今のナハトは冷静ではない。戻らなければならないと納得しているはずなのに、放っておかなかったヴァロへの怒りで叫んでいる。空中だというのに暴れるのもそのせいだろう。
いつもならナハトの味方をするドラコも今回ばかりは何も言わない。ヴァロの肩にしっかり爪を立てて、見守っている。
結局そのままダンジョンを出て帰宅するまで、ヴァロはナハトを抱えたまま一切自由にさせなかった。




