第15話 揺れる足元
「ナハトくん、これ飲んでぇ?」
回復薬だと渡された瓶には、緑色の液体が入っていた。回復薬は勿論ナハトも持っているが、わざわざ渡してくるという事は体力回復だけでなく治療効果があるものなのだろう。正直なところ嚥下するのもきついが、上を向けないので飲ませてもらうと、少しとろみのある液体が喉を滑っていった。その瞬間から、喉がすっと楽になる。
「あ…あー…」
「話せそお?」
「はい…。大丈夫そうです」
「よかった…」
引っ掛かりはあるしまだガラガラするが、それでも多少なら声を出しても問題ないだろう。ナナリアの回復薬以外で、ここまで治療効果を持つ回復薬を見たのは初めてだ。
ほっと息を吐いて口元の血を拭おうとすると、ルイーゼが微笑んでハンカチで拭ってくれた。その笑顔が何だか怖いがとりあえず礼は言っておく。
「ナハトくん、話せるなら聞きたいんだけど…」
「なんでしょうか?」
「せいれいって…何?」
「え…」
問われて戸惑う。ルイーゼは魔術師だ。だというのに、“精霊”を知らないとはどういうことだろうか。困惑しながらも、精霊に値する言葉が違うだけかとナハトは口を開く。
「何って…ルイーゼさんも魔術師ならば、契約を行ったでしょう?」
「契約…?なんのことぉ?」
「ですから、精霊との契約です。それをしなければ、魔力があっても魔術を使えないではありませんか」
「えぇ?魔術はだれでも使えるでしょう?」
本当に意味が分からないといった様子で返され、ナハトはさっと血の気が引いた。まさか精霊も契約も通じないとは思ってもみなかった。「そんな馬鹿な」と声が漏れたが、ルイーゼが嘘をついている様子はない。唯一これだけは同じなんだと信じて疑わなかったものが否定されて―――訳が、分からない。
愕然とした様子のナハトに、ヴァロは顔を上げた。
「もう、帰ろう。ナハトもこんな状態だし、初回の探索ならもう十分だから」
「そおねぇ。ゆっくり話も聞きたいしぃ」
「……」
向けられた視線に答えぬまま、ナハトはきつく目を閉じた。
ヴァロも騎獣を出し、揃って一度荷物を取りに戻った。テントは多少魔物に荒らされてはいたがそれ以外は特におかしな様子もなく、あの靄のような精霊もいない。荒らされた荷物に中から首に巻いていた飾り布を取り出すと、ナハトは痣を隠すようにいつも通り巻いた。見えないので分からないが、ヴァロやルイーゼの表情からして相当酷いものになっているのだと思う。
騎獣はダンジョンの出入り口をどこからでも探知することが出来る。その為荷物をまとめたら、全速力で出入り口へ向かった。ルイーゼとヴァロが騎獣を戻すのを見て、ナハトもアッシュを前に膝をつく。
騎獣には意思がないので本来は魔石に戻れと願うだけでいいのだが、意志のあるアッシュに無言でそれを行うのは少々憚られる。だが、そう言っていられる体調でもないため、ナハトは手をかざす。
「にゃぁ?」
「…またね」
首を傾げてこちらを見ていたアッシュは、ナハトの願いにぱっと切り替わるように魔石へと戻った。それを見たドラコが寂しそうな声を上げた。
入ってきたそこから外へ出ると空は白み始めていた。刺すような冷気に急いで上着を羽織り、時計を見ると朝の4時。体は疲れ切っていたが、ルイーゼが目を輝かせてこちらを見る。それを見て、ヴァロはナハトの前に出た。
「今日はもう帰ります」
「だーめ。あーんな訳の分からない話を聞いてぇ、そのままになんて出来るわけないわぁ」
「だけど…!」
「ヴァロくん、私も話がしたい」
「ナハト…」
最初に見たヴァロの爪が紫で、ここで出会った優等種はみんな爪に色があって、魔術師がいて。だから、精霊との契約が無いなんて考えてもみなかった。ダンジョン内に何も見つけられなかった事もショックであるし、精霊に襲われたことも訳が分からない。なにより信じて疑わなかった“常識”を否定されたのだ。少しでもこの不安を埋めたいと、ナハトはそう口にした。
ナハトのそんな様子に、根負けしたヴァロが頷く。
「……家でなら」
「もちろん、いーわよぉ」
にっこり笑うルイーゼにヴァロは渋い顔をしたまま全員で借家へ戻った。
いつぞやの時のようにナハトはベッドに座り、背中にクッションを入れられて毛布も掛けられた。疲れ切ったドラコを膝に乗せると、彼は心配そうに見上げながらも眠気に負けて丸くなる。
正直言えばナハト自身も疲れ切っていて、何より頭痛が酷い。首の痣も痛く、目眩も少しも良くならない。クッションで作られた背もたれに寄り掛かるだけで体が休息を急激に求めて来るが、話をするために顔を上げた。
暖炉に火が入るのを待って、ベッド脇に座ったルイーゼは待ちきれないと言った様子で話し出した。
「それでぇ、精霊ってなんなの?」
「…正確なところは私にもわかりません。ですが私は、魔術は精霊と契約することによって使えるようになると教わりました」
「そんな話聞いた事ないわぁ。ナハトくんはどこの生まれなのぉ?」
今さら隠しても意味はない。ナハトも知識を欲しているのだ。だからナハトも聞かれた事には全て応えるつもりで、話すつもりで口を開いた。
「生まれというなら、ゲルブ村というところです。ですが、私は自分がどこから来たのかわかりません」
「…どういうことぉ?」
「数か月前…目を覚ましたら、カントゥラ近くの森の中にいたのです」
いいのかと、こちらを見るヴァロに頷いて、話を続ける。
「私が生まれた村は、森の中にありました。そこはここでは危険な森と言われる魔獣の森で…私の生まれた村はなくなっていました。だから、私はここがどこなのかわかりません。私が生まれ育ったところとは地形は似ていますし、言葉も文字も同じです。…ですが、常識やそこに生きる生き物、植物それらがほとんど違います」
「ふぅん」
結構な話をしているのだが、ルイーゼにとってはそれはどうでもいいらしい。興味なさそうに相槌を打つと、「それより」と言って身を乗り出した。
「さっきナハトくんは、精霊がどんなものかは分からないって言ってたけどぉ…そんなよく分からないものとどうやって契約したのぉ?」
「え…と、それは、召喚の魔法陣という物がありまして…。それに魔力を流すと、爪の色…魔力の属性に従って精霊が応え、それで契約がなされていました」
「応えるって、どうやってぇ?姿とかは?」
「私の場合は、魔法陣から細い蔓が伸びて手に巻き付きました。姿は…わかりません」
「…?わからないのに、ダンジョンでナハトくんを襲ったのが精霊だって…何でわかるのぉ?」
それは、正直なところナハトにも分からない。だが、ナハトはあれが精霊だという確信があった。分かったのではなく確信だ。感じとったと言った方が正しいのかもしれない。
「…分かりません。私が精霊と契約をしているからかもしれません」
「なるほどぉ」
ナハトの言葉に、ルイーゼは次々に質問を投げかけてくる。精霊の魔力とはどんなものなのか、魔力を混ぜあうとはどういう感じなのか、魔法陣を覚えているか、または書けるかなど―――。
ナハトもルイーゼに聞きたいことがある。精霊を知らないのであれば、どのような手順で魔術を使えるようになっているのかという事だ。先ほどルイーゼは「魔術誰でも使える」と言っていた。確かにナハトが見た優等種は皆爪に色があったのだから、契約をすれば誰でも魔術は使えるだろう。
だが先ほどルイーゼが口にした様子ではまるで―――まるで、精霊も契約もなく魔術を使っていると、そう言っているようであった。そんな違いはないと思いたい。そうでなければナハトは、ナハトと契約した精霊は、その概念が存在しないここでどうして魔術を使えているのだろう。こくりと息をのんで、ナハトはその疑問を口にした。
「ここでは…魔術師は、どういう過程を経てなるのですか?」
「そうねぇ」と呟いて、ルイーゼは事も無げに言う。
「過程というほどのものはないわぁ。魔術師なんて、魔力の多い冒険者が名乗る職業なだけだもの。魔力を感じられてぇ、自分で魔力を操作できるならぁ、それはもう魔術師よぉ」
「…それだけ?」
「そうよぉ」
「魔力を感じられて、操作出来たら魔術師…?待ってください。それでは、いつ魔術を使えるようになるのですか?」
ナハトの問いに、ルイーゼは不思議そうな顔で首を傾げた。何を言っているのかと、僅かに眉を顰めている。
「…ナハトくん、何を言ってるのぉ?魔力を使えたら、魔術も使えるでしょう?魔術は魔力を変化させたものなんだからぁ」
そう言われて、ナハトは自分が信じていた常識とここでの常識には埋められない差があると感じた。
村も、誰もいなくて、ナハトがいた場所と様々なものが違って、人も常識も違って。それでも絶望しないでいられたのは、魔術という繋がりがあったからだ。爪の色が魔力の証。それが同じで、ナハトがここでも魔術を、植物を扱えたからだ。その根幹が違うとなったら―――自分は本当に、どこに来てしまったのだろう。
「…ナハトくん?」
ルイーゼが伺うようにナハトを見る。それにも気付かず、ナハトは俯いた。
冒険者になって、等級を上げて、手掛かりを追ってここまで来た。何もわからないながらも、ここに生きているのだからと足元を固めて来た。なのに、積み重ねたそれらが崩れて行く音がする。
(「…精霊を知らない、契約もない…。ならばここは私の知る場所ではない…。そもそも、私と契約した精霊は…いや、その前に何故私はここで魔術が使えるんだ。…ここはいったい…」)
わからない、わからない。ダンジョンに入れなかったのも、ナハトだけ精霊に襲われたのも、劣等種なのに魔力を持っているのも、全てはナハトがここの異物だからではないのだろうか。どこから来たのか、ここがどこなのかもわからないまま、ナハトはここで生きて行かなければならないのだろうか。全ての事が急に恐ろしく感じて、ナハトは頭に手を当てた。がんがんと頭に響く頭痛と眩暈も遠くに感じる。頭がおかしくなりそうだ。
「ナハト…!ルイーゼさん、もういいですよね?ナハトを休ませるから帰ってください」
「わ、わかったわぁ」
頭を押さえて蹲るナハトに、さすがのルイーゼも大人しく引いた。振り返りながら出て行くルイーゼを見送って、ヴァロはナハトに声をかけた。
「ナハト、一回寝た方がいいよ。酷い顔色してるよ?」
首を絞められたから顔にも瞳にも内出血の後が出ている。消えるには時間がかかるだろうが、それでも休めば少しはマシになるはずだ。
だが、ナハトは首を横に振った。とても眠れる気分ではない。
「…少し、一人にしてくれないか…」
「え…だ、だけど…」
言い淀むヴァロに、ナハトは小さく息を吐くと立ち上がろうとした。それを慌てて止める。
「ま、待ってナハト。俺があっちの部屋にいるから」
「…ありがとう」
こんな状態のナハトを置いて部屋を離れるのは心配だが、ヴァロが移動しなければナハトが部屋を出ようとする。ならばせめて、暖かい部屋にいてほしい。
「何かあったら、呼んでね」
「……ああ」
小さな返事に後ろ髪をひかれながら、ヴァロは寝室の扉を閉めた。




