第6話 はじめまして
目を覚ますと、薄暗い、見知らぬ壁が目に入った。ぼーっとする頭でここはどこかと視界を巡らそうとして、体がうまく動かないことに気がついた。
「ドラコ…」
声に出たかどうかもわからないものだったが、ぴょんとドラコが顔の前に現れた。嬉しそうにナハトの頬を舐めてくるのに安心して、ナハトはまた眠りについた。
深い眠りと浅い眠りを交互に繰り返し、やっとはっきり目を覚ました時には、ナハトはとてもとても小さな部屋の中にいた。いや、部屋というほどの広さもない、人1人が寝るのにギリギリのスペースしかない、背の高い箱の中のようだった。
「…ここは…?…いっ!」
体を起こすと、背中と左手に鋭い痛みが走った。痛みを堪えながら体を検めると、そこかしこに包帯が巻かれ、着た覚えのない大きなポンチョのような服を着ていた。
「起きたの?」
突然声が聞こえて、扉が開かれた。扉の向こうは眩しく、ナハトは眩んだ目を庇うように左手を上げた。
その時。
「ギュー!!!」
「わぷっ!」
何かが顔に飛びついて来た。今度はわかる、これはドラコである。顔面に絡みつかれ全力ですりすりされて、また心配させてしまったと反省する。
「ごめんね、ドラコ。もう大丈夫だよ」
そう言ったつもりが、長く声を出していなかったのか、掠れた息が出ただけだった。
「あ、あの…これ!」
差し出されたそれを反射的に受け取ると、透明な入れ物に並々と水が入っていた。器の綺麗さに驚いていると、怪しんでいると見られたのか、ただの水だと言う声が降ってきた。
「ギュー!!!」
飲めと言うようにペシペシ頬を叩かれ、ナハトは恐る恐る水に口をつけた。するとよほど喉が渇いていたのか、少し甘みを感じる水はするすると喉を落ちていき、一杯の水とは思えないほど満たされた気分になった。
顔を上げると、水を差し出した人物は、逃げるように扉の前から消えた。顔に張り付いたドラコを撫でながら、少し身を乗り出して扉の向こうを見回す。
そこはリビングと寝室が一つになった部屋のようだった。部屋の中心には柱があり、それを囲むように机と椅子が数脚、窓際には大きなベッドがある。ぐるりと部屋を見回すと、視界の端に真っ白い大きな毛玉のような生き物がいることに気がついた。
「えっ…」
毛玉だと思ったそれは、長く伸びた髪に覆われた獣人だった。手足をモジモジさせているが、先日ナハトを襲った獣人と同じくらいの大きさである。長い毛で覆われて顔が一切見えないし敵意も感じないが、獣人であることには間違いない。
「よ、良かったね…?」
かけられた言葉に驚いて、自分を見て、部屋を見て、ドラコを見て。ナハトは気づいた。
「…ひょっとして、あなたが私を助けてくれた…のですか?」
「ギュー!」
「そ、そうか…。ありがとうございます、見知らぬかた」
「あっ、いえ…」
微妙な沈黙が流れる。いろいろ聞きたいことがあるのだが、家主であろう獣人はモジモジしたままこちらを伺っている。
これは先に動いた方が勝ちだろうと、ナハトは痛む背中を堪えて頭を下げた。
「はじめまして。私はナハト、この子はドラコといいます。危ないところを助けていただいて、ありがとうございます」
「あ、あの、俺は…ヴァロ、です」
「ヴァロ…良い名前ですね。ではミスターヴァロ、いくつかお尋ねしたいことがあるのですが、少しお時間よろしいですか?」
ナハトの言葉に、ヴァロと名乗った獣人は、慌てふためいて椅子を持ってナハトの目の前へ来た。自分で用意した椅子に座り、背筋を正してこちらをみる。
「は、はい!どう、ぞ…」
「あっ、いえ…。どうぞ、そんなに畏まらないで下さい。畏まるのは、置いていただいている私の方ですから」
「あっ、でも…偉い人を、こんな、ところに入れちゃったので…」
どんどん小さくなる言葉に首を傾げる。こんなところと言われ、ナハトはもう少しだけ自分のいる場所を見回した。左右に開かれた扉、高い位置に設置された棚。もしかしてだが、ここはクローゼットの中だろうか。
(「それにしても偉い人とは…喋り方か?」)
ナハトはにこりと笑うと、また頭を下げた。
「驚かせたようで申し訳ない。この喋り方は癖ゆえに、あまり気になさらないで下さい。私自身、偉くもなんでもありません。なので、クローゼットの中というのも気にしません。私の体のサイズでは、全く問題ありませんから」
「えっ?じゃ、じゃぁ…偉い人では…」
「違います。よろしければ、まずはそのお話しを。ミスターヴァロ、あなたはなぜ私たちを助けてくれたのですか?」
単純に疑問だった。言葉を交わしたのはあの町でナハトを襲った一人だが、それでも彼が、彼らがナハトたちのような人を良く思っていないのは確かだった。もちろん、怪しかったのもあったのだろう。目深にフードを被り、しゃがみ込んでいた事がいけなかったのかもしれない。
だがあの獣人は、ナハトを劣等種と呼び、こちらの話しも聞かずに突然斬りかかって来たのだ。劣等種などと呼ばれている以上、獣人以外は何かしら問題視されているのかもしれない。それこそ、いきなり斬り殺しても問題ないほどに。
そんなナハトを助けたのだ。何日眠っていたかわからないが、傷も深かったし、手間も世話も相当かかっただろう。それなのになぜ助けたのか、聞かずにはいられなかった。
だからヴァロが言った言葉に、ナハトは大きく驚いた。
「あの…そ、その子が助けてって言った…ので…」
ヴァロが指さした先は、ナハトに撫でられるドラコ。
「…失礼ですが、あなたはこの子の言葉が…?」
「いえ!わからないです!…そのぉ…なんか聞こえるなぁと思って近づいたら、あなたが倒れてて…。その子が俺のズボンの裾を…引っ張って…。だから、助けて欲しいのかなぁって…」
「…えっ?それだけ?」
「はっ、はいぃ…」
驚いて思わず言葉が乱れた。なんてお人好しなのだろうか。たったそれだけの事で、家に連れ帰り看病するなど、正気の沙汰とは思えない。
「…ミスターヴァロ。あなたは大変お人好しでいらっしゃる」
笑うと、ヴァロは少し安心したように、体の力を抜いた。下がっていた耳が上がり、膝の上で握られていた拳が解かれる。
その瞬間、視界に入った彼の爪の色。ナハトは驚いて、その手を掴んだ。
「わっ!な、なに!?」
「失礼、この爪の色は…ミスターヴァロ、あなたは魔術師なのですか?」
「へっ…?」
薄い紫色の爪。およそ魔術師らしくない格好で気づかなかったが、彼が魔術師なら、師父カルストのことを知っているかもしれないと、ナハトは思った。カルストは、本当に優秀な魔術師だった。獣人の魔術師は聞いたことがないが、ナハトが知らないだけかもしれない。
「答えていただきたい。あなたは魔術師なのですか?」
「い、いえ…俺は、ただの人です…」
「ただの…?諦めた者ということですか?」
「えっと…爪が、ど、どうかしたんですか?あなたも緑の爪じゃ…」
これはどう言うことだろうと、ナハトは右手を口元へ当てた。
(「この反応は…爪に色があるのは何ら不思議ではないとみえる。どういうことだ?まさか、爪に色があるのが普通であったり…するのだろうか?」)
これはますます聞かなければならない。幸いなことに、ヴァロと名乗った彼は大変なお人好しだ。大体のことは答えてもらえるだろう。
「ミスター、いろいろお尋ねしたいことがあるのですが…」
そうナハトが言ったところで、俄に外が騒がしくなった。何かと思っていると、ヴァロが慌てて立ち上がり、ナハトを押し込んで扉を閉める。
「なにを…!」
「お願いします!静かにしていてください。絶対に声や物音を立てないで」
こちらの返事も聞かず、ヴァロはパタンと扉を閉めた。
それと同時に、この家の扉がガンガン叩かれた。ドラコが驚かないよう撫でながら、外の音に耳を澄ませる。
「さっさと開けねえか!愚図が」
「ま、待って待って…」
かちゃりと鍵が開く音と、扉が開く音。それと、複数人の足音が響く。
「よぅ、泣き虫。遊びに来たぜ」
「よ、ヨルン…。あの、今日は…」
「つべこべ言ってんじゃねぇよ。俺、新しい遊び考えたんだよ。だからよぉ、ちょいと付き合ってくれるだろう?」
「えと、でも…うわぁっ!」
バタンと音がして、扉が閉まった。だんだんと騒がしい声が遠くなり、そして聞こえなくなった。
そっと扉を押し開けて確認すると、窓の向こうに引き摺られるようにして歩くヴァロの姿が見えた。
「…なるほど。彼はいじめられっ子というやつのようだね」
「グー…」
「おや?不満そうだね、ドラコ」
見上げてくるドラコに微笑みかけると、ナハトはクローゼットから外へ出た。思ったように力が入らず、ふらりと体が傾き、慌てて壁にもたれかかった。思っていたよりも体力が落ちている。
しかしじっとしているつもりはない。家主のいない間に家探しである。金品が目的ではない。情報収集のためだ。
(「…恐らくだが、しばらくの間、私は熱で意識がなかったのだろう。あれだけの傷だ、さもありなん。とはいえ、少しでもこの場所について知っておかなければ…」)
完治したとは言い難い状態で動き回るのは良くないとわかってはいる。だが、分からないというのは危険だ。わからなければ逃げることも、問題を避けることも、何もできないのだ。壁を伝って歩きながら、ナハトは部屋を物色した。
この部屋にはベッドが1床、大きな机と、数脚の椅子に、壁際にあるあれは暖炉だろうか。四角い箱から伸びた細長い管が、天井のその先まで伸びている。さらにナハトのいたクローゼットの横には、見たことがない四角い箱がいくつも並び、その中にはまた四角くて薄いものがたくさん入っている。
何だろうと一つ手に取ると、それは結構な重さで背中が痛んだ。表と裏が同じような材質で出来ていて繋がっており、中は白い。見た事ががないそれを裏返そうとして、突然それが開いて床に落としてしまった。
「…しまった…」
壊してしまったかと持ち上げると、それは薄い四角い物が、一辺でくっついたもののようだった。
(「なるほど、こう開くのか…」)
それには文字が書いてあった。薄い一枚を捲ると、反対にも文字が書いてある。幸いなことに、少し読みにくいが読めそうだった。
(「驚いた。獣人とは文字が同じだったのか…」)
開いて中身を確認しては戻し、首をかしげる。吟遊詩人に聞いた物語のようなものが多く、すぐに得られそうな情報はない。その中で、一冊の日誌を見つけた。これならば得るものがありそうだと、それを一冊だけ持ってクローゼットの中へ戻った。
内側から扉を少しだけ閉め、一枚一枚、読んではめくっていった。
ガチャリという音で、ナハトは目を覚ました。どうやらまた熱が上がってしまったようで、いつの間にか寝入ってしまったようだった。
緩慢な動作でクローゼットから顔を出すと、そこにはこの家の主、ヴァロが、血と泥に塗れて立っていた。
「…なかなか酷い目にあったようですね。ミスター、手当ての必要はありますか?」
「…大丈夫です」
ヴァロは耳をしょんぼりとさせて、隣の部屋へ行ってしまった。今日は見てまわれなかったが、そちらの部屋にキッチンや水回りがあるのかもしれない。
少しして、白さを取り戻したヴァロが戻ってきた。相変わらず耳と尻尾が下がっていたが、ナハトが手にしているものを見て、文字通り飛んできた。
「そ、それ…!」
「…これがどうか…」
最後まで言う前に、ヴァロはナハトの膝の上にあるものを引ったくって丸くなってしまった。尻尾まで丸まっている。
ナハトは何か粗相をしてしまってことはわかったが、何がいけなかったのか分からない。たまらず声をかけた。
「申し訳ない。私が何か気に触ることをしてしまったようですね」
そう言うと、物凄く小さなか細い声で、大丈夫と返ってきた。大丈夫なようには見えないが、本人が言うなら大丈夫なのだろう。今はヴァロの事より己の事を優先したかった。
「それでミスター、よろしいですか?あなたが出かける前に、私が言っていた、尋ねたいことなのですが…」
「あっ。はい…どうぞ…」
少し離れた椅子に座って、ヴァロはこちらを見る。髪で目が覆われているのでわからないが、相当しょんぼりさせたことは間違いないようだ。申し訳なさはあるが、まあいいかと、ナハトは息を吐いて話し出す。
「まず、先程の続きを。この、爪に色があるのは一般的なのですか?私のこの緑の爪は、植物に適性があると言われていましたが、あなたの紫の爪は、雷に適性があると言われていませんか?」
この話にもヴァロは不思議そうな顔をした。
「爪、爪に色があるのは、普通…ですよ?てきせい?とかはよくわかりませんが、ギルドの魔術師は、爪の色と使う魔術に相性がある…て、聞いたことがあります」
ギルド、魔術師、魔術の相性。ナハトにとって大変興味深い話が出てきた。ギルドというのは聞き覚えがないが、町で仕入れた単語の中にはあった。それと示し合わせると、恐らく組織のようなものだろう。なるほどと一度話を切って、次の質問を口にする。
「では、ご両親はご在宅でしょうか?それともここにはあなたお一人でお住みですか?」
「りょ、両親は…俺の小さい時に死にました……。ここには俺、1人で…住んで、ます」
「これは失礼しました。許していただきたい。いらっしゃるならご挨拶をと、思っただけなのです」
「はい…大丈夫、です」
「次に、ご職業は?」
「えっ?えっと…は、畑の手伝いとか…ギルドの、雑用とか…」
「…なるほど。それは、私たちがこちらでお世話になっていても問題ないほど、稼げるものですか?」
「え…ええと…」
「誠に申し上げにくいのですが、私たちは今全く持ち合わせがないのです。なので、金銭をお渡しする事も、お礼をお支払いすることも出来ないのです」
事実ナハトは金銭を持っていない。町で見た、店側と客がやり取りしていたあれがお金だとは分かったが、それはナハトの知るものではなかった。ナハトが知っているお金は一種類。硬貨の表面にかかれた模様で価値を判断するものだ。
しかし町で見たお金は、色にも形にも複数の種類があった。胴のような色の貨幣は色こそ似ているが、ナハトが知るそれはもっと黄みがかっていて形も長方形だった。あんなに綺麗な丸ではない。
(「いくらか持っていたお金も、背中を切られた時に荷物と一緒に落としてしまった。今は本当に、自分とドラコ以外何もない」)
言いたいことは伝わったのか、ヴァロは首と手をブンブン横に振りながら言う。
「あの!それは…大丈夫です!あの、本当に…。少しは、お金ある、ので…」
それを聞いて安心した。これほどのお人好しならば、よほどのことがない限りこの状態で放り出すことなどしないだろう。
ならば、という事で、ナハトは本題に入った。
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」
「は、はい、どうぞ…です」
「それでは本題なのですが、ここはどこでしょうか?」
「えっ?こ、こは…リビエル村です」
聞いた事がない村名に首をかしげる。
「リビエル村…。国名は?」
「…ビスティア、ですけど…」
「なるほど…。ここから1番近い大きい町は?」
「カントュラ…」
「…ふむ、なるほど…」
ナハトは眉をひそめた。どれも聞いた事がない。
少し考えて、再度口を開く。
「ミスター、地図はありますか?」
「あ、あります…」
少し警戒するように持ってこられたそれを目にして、ナハトは頭を抱えた。
その地図には見覚えがあった。師父の部屋に飾ってあったものとよく似ている。細部は少し違うが、大まかには同じだ。という事は、森の中で見たあの景色は、本当に村があった場所だったという事だ。そして、どういう事かはわからないが、村も、国も、人も、ナハトが知るものとは大きく違ってしまった。それが現実に突き付けられて、くらりと眩暈がした。
「あの…?」
「…ミスター、信じられないかもしれませんが、聞いていただけますか?」
「は、はい…」
ぴょんと膝の上に降りてきたドラコを撫でながら、ナハトは喋り出した。
「私は…私たちは、ほんの少し前に、この森の中で目を覚ましました。ゲルブという村に住んでいて、その村もこの森にありました」
「えっと…この森、ですか?」
「はい、その森です」
指さしたその森には『魔獣の森』と書いてあった。ナハトがいたあの村は、魔獣は確かに多く出たが、それでも村人が襲われることなど殆どなく、平和と言って良い物であった。地図に、魔獣の森と書かれてしまうほど、危険な場所ではない。
「こ、この森は危険な場所で…」
「ええ、そのようですね。ですが、確かに、私とこの子はこの森の中の、ゲルブという村にいたのです。細かい話は省きますが、ある日、私を殺そうとするものに追われ、森の中に逃げたところ、足元が崩れ、怪我をし、その傷口を洗おうとしたところ、透明な石が体を覆い、気がついたら数日前という事です」
「…はっ?あの、途中からさっぱりなんですが…」
「ええ、私たちにもさっぱりです」
「ギュー」
ドラコもうんうんと頷いてくれる。そう、言葉にしてみたが、ナハトにもやはりわからなかった。
「とにかくですね。気がついて外に出てみたら、見覚えがある景色なのに村はないですし、森の様子はおかしい。町を見つけて覗いてみたら、あなた方のような姿の方しかおらず、突然私は劣等種と呼ばれ、襲われたわけです」
「…はぁ…」
ぽかんとした顔で話を聞くヴァロに、ナハトは続ける。
「どうか気を悪くなさらないで欲しいのですが、私が気を失う前は、私のような姿の者、人と呼ばれる者が人口のほとんどだったのです。あなた方は獣人と呼ばれていました。ですが、今は違うのですよね?」
獣人という言葉に、ヴァロの耳がピクリと動く。やはり気に触る言葉だったかもしれない。
「…俺たちは、俺たちのことを優等種と呼びます。人は俺たちを指す言葉で、さっきの…獣人は、劣等種が、俺たちを指す侮蔑の言葉です…」
「…それは失礼しました。悪気はないのです」
ナハトが謝ると、ヴァロは首を横に振った。
「…いいんです。俺たちも、劣等とか優等とか言ってますから…」
「そうですか…。私のような者は、この国ではどこにいるかわかりますか?」
ヴァロは首を横に振る。
「辺境に…いると、聞いたことがあるくらいです。でも、さっきのが本当だとすると…あっ、疑ってるわけじゃないんですけど…大変でしたね…」
「それほどでも」
「ギュー!」
「…そう怒らないでくれ、ドラコ。私は本当にそれほどでもないと思っているよ?今生きているからね」
よしよしとドラコを撫でると、不服そうに噛みつかれた。歯がないし甘噛みだから可愛いだけだ。
「長くなってしまいましたが、先程の話でもわかってもらえたように、私はここの常識がわからない。町も見たけれど、知らないものばかりで…言葉はわかりますが、聞いたことがない単語も多かった。あの…」
ナハトが指差すと、その先にあるものを見て、またヴァロが飛んでいった。
「こ、これが何ですか!?」
「いや、えっと…それが何なのか、私はわからないのです」
「…えっ?」
「文字は読めたから、日誌のような物だということはわかりますが…その四角い物が何で、どう使う物なのか分からないのです」
「…読んだんですか?」
「ほんの少し、2か月分ほど…。今日こそは強くなって見返してやる!というところまでしか…「わああぁぁぁぁあ!」」
突然大声を上げたヴァロを見ると、真っ白がピンクに見えるほど、顔が赤くなっていた。その様子にピンときてしまう。
「…ミスター、それはあなたの…」
「わあぁぁああ!そうです!俺が書いたんです!もう何も言わないでください!」
「承知しました。もう言わないし見ません」
「…そうしてください…」
こちらに背を向けてまん丸になってしまった彼に、ナハトは少し面白くなってしまった。体は大きいのにこれほどまでに気が弱いとは、損をしている。
「…そういうわけなので、ミスター。良ければこの傷が治るまでいろいろ教えてもらえないでしょうか?動けるようになったら家事等の手伝いも致しますし、私のような者でも、働けるなら働かせてもらいます。ただ、もしあなたが今の一件で私たちを追い出したいなら別ですが…」
「い、いてもらって大丈夫です。ただ2つ…お願いがあるんですけど、いいですか?」
「なんなりと」
「…あの、これの事は、他の誰にも言わないでください…」
「承知しました。他の誰にも言わないと約束しましょう、ミスター。もう1つは?」
「もう1つは…その、ミスターっていうの、やめてもらえますか?ミスターって…その、貴族とか偉い人が、言ってるのしか…聞いたことがなくて…なんか…」
なるほどそうなのかと、ナハトは納得した。最初にヴァロがナハトを偉い人だと認識したのは、言葉遣いだけでなく、ミスターと呼ぶことにもあったようだ。
(「…まぁ、村でもミスターやマダムと呼ぶと嫌がられてはいたが…」)
しかしそれでは何と呼んだらいいかと考えた。正直なところ、呼び捨てはあまりしたくない。呼び捨てにするという事に抵抗があるのだ。
「承知しました。それではなんてお呼びしましょうか?出来れば呼び捨ては避けたいのですが、何か不自然ではない敬称などご存知ですか?」
「敬称…ええっと…名前の後ろにくんとか、さんとか…」
「なるほど。それでは今後はヴァロくんと呼ばせていただきます。よろしくお願いします、ヴァロくん」
「よ、よろしくお願いします…」
握手は握手として問題なさそうだった。ナハトが差し出した手に、おずおずとヴァロが合わせてきた。手の大きさが違いすぎるて殆ど手に呑まれている感覚だったが、ヴァロも少しは緊張が解けたようだった。