第53話 ナハトと契約した精霊
ダンジョンへ入ってすぐにナハトは入り口を蔦の壁でふさいだ。ただの蔦を編み込んで出口を覆った壁であるためすぐに壊されるだろうが、時間を稼ぐ事が目的なのでそれでいい。
体に異変がない事、コルビアスの様子にも変化がないことを目視して木の洞の中のようなところを抜けると、そこにあったのは大きな沼だった。苔の生えた木がところどころに生えていて、周囲には真夏の雨の日のような湿気が立ち込めている。見通しはそれほど良くないが隠れるには適さない、そんな場所だ。
ナハトはざっと周囲を確認してみたが見る限り隠れるのに向いた場所はなく、仕方なくコルビアスの手を引いて少し離れた場所にある山に向かって走り出した。
「ここがダンジョンの中…?」
「申し訳ありませんが、今は走ることに集中してください。人に見つかるとまずいですから」
走りながら周囲を興味深そうに見るコルビアスに注意を入れた瞬間、目の前に見覚えのある鳥が姿を現した。ばさばさと羽をはばたかせて、不思議そうに首を傾げる。
「ヴィント!いい所に」
「…随分縮んだな」
出てきて早々そう言った彼の視線の先にいるのはコルビアスだ。どうやらヴァロと間違えているようだが———相変わらずな彼に苦笑いを浮かべる。
「と、鳥がしゃべった!?」
「何を言っている。物を忘れるほどの年月はまだ経っていないはずだ」
「2人ともそこまでです」
一生重なる事がないであろう会話を強制的に終わらせて、ナハトはヴィントに向き直った。
「話はあとです。ヴィント、すぐに移動したいのですが…出来ますか?」
「追われているのか?」
「はい」
ちらりと出てきたばかりの木を振り向くと、ナハトが作った蔦の壁に火が放たれていた。切り倒すのではなく火をつけるとは、ギルドの職員らも焦っているようだ。時間がない。
「時間がありません。今すぐに移動させてください」
「わかった」
言うや否や、ヴィントはすぐさま声高く鳴いた。するすると蔦が伸びて円になり、虹色の膜が張る。
「コルビアス様、気持ち悪くなりますが我慢してください」
「えっ、えっ?わああっ!!」
訳が分からず混乱するコルビアスを抱えて、ナハトは円の中へ飛び込んだ。
円を出た先は、ビルケがいた木から少し離れた森の中だった。安全な場所まで繋いでくれれば良かったのにとそんな思いでヴィントを見ると、彼はあからさまに視線を逸らす。
「…おまえが急かすからだ」
「…そういう事にしておきましょう」
少しだけ笑って視線を上げると、ほんの少しだけくらりとした。久方ぶりであるからの酔いのようだが、動けないほどではない。
だがコルビアスはそうはいかなかった。予想はついたが酔いが酷く、降りると同時にその場に吐き出してしまった。真っ青な顔で吐く彼の背中を撫でながら声をかける。
「話す前に移動してしまってすみません。吐くだけ吐いたら、これで口を濯いで横になってください」
あまりに気持ち悪いのだろう。コルビアスは返答もなくうつろな目で口を濯いで、そのまま横になった。きつく閉じた目の上に絞ったタオルを乗せてやると、すぐに寝息が聞こえてくる。時間も時間であるから体力の限界だったのだろう。
「ヴィント、すみませんが荷物を持っていただけますか?私のものだけでいいので」
「何故我が…」
「私では持てないからです。それとも彼が目覚めるまでここにいますか?」
ナハトがそう言うと、あからさまに溜息をつきながらもヴィントは荷物を持ってくれた。その代わりにナハトはコルビアスを背負い、コルビアスが背負っていた荷物は体の前に抱えて立ち上がる。かなり重いが何とか歩けそうだ。
いつもの大きな木の中に少々ふらつきながら入ると、ビルケが出会った時のように中心付近に座っていた。ナハトがコルビアスを降ろすのを見て、目を丸くしている。
「随分と小さくなった」
「…あなたもですか。この子はヴァロくんではありませんよ」
「そうなのか?」
「そうです。それと、人間はそう簡単に大きくなったり小さくなったりしません」
荷物を置いたヴィントとビルケがコルビアスを覗き込んでいる間にナハトは周囲を確認したが、眠っていたはずのアッシュの姿がない。眠っていた場所にいないから目覚めたのは確かなのだろうが———。
「ビルケ。アッシュは…」
「何処ですか?」と聞こうとして、ナハトは背後に現れた気配に反射的に振り向いた。瞬間、視界いっぱいに広がる黒。
「うわっ!?」
「ニャア!」
そのまま押し倒されて顔中ベロベロに舐め回された。頭を押し付けながら舐め回すという器用なことをするその生き物は、この四足獣はもしかしなくてもアッシュである。
「ちょ、アッシュ!ま、待て!」
「ニャア!ニャアァ!」
「わかった、わかったから!」
会えない間の寂しさを埋めるように舐められ押し付けられて、顔中涎まみれになってしまった。べたべたで気持ち悪いが、こうも歓迎されると悪い気はしない。アッシュの歓迎よりは随分控えめだが、ナハトも精一杯アッシュを撫でて抱きしめた。
するとその時―――クスクスと誰かが笑う声が聞こえた。
「…?」
突然聞こえた穏やかな笑い声。ヴィントのものでもビルケのものでもないその声は、通常であれば警戒するに値するものだ。しかし何故かナハトはその声に懐かしさを覚えた。聞き覚えもないのに、妙に懐かしい。
顔を拭って見上げると、差し込んだ光に照らされて一人の女性が下りて来た。明るい黄緑の長い髪に朝露に濡れた若葉のような瞳、彼女は優しい笑みを浮かべ、たおやかな動作でナハトも前に降り立った。ビルケと同じような長い布を巻きつけたような服を着ていて、流れるような動作でアッシュを撫でる。
こんなに美しい女性は見たことがない。ないのだが―――。
「あなたは…」
ナハトが言葉を言い切る前に、彼女は手を伸ばしてナハトの頬に触れた。戸惑うも、何故だか抵抗することが憚られて、されるがままナハトは女性を見つめる。すると見る見るうちに彼女の目に涙があふれた。伸ばされた手は流れるような動きで背中にまわり、気が付いた時にはナハトは抱きしめられていた。
「え…あの…?」
「…やっと、会えた…」
「えっ…」
言葉が零れ落ちるようにナハトの耳を打つ。姿に見覚えはなく、声にも聞き覚えはない。だが、やはりナハトは彼女を知っている気がした。ふわりと香る花のような匂いも、背中にまわる優しい腕も、何もかも初めてのものだけれど―――抱きしめられて込み上げてくる懐かしさに、ナハトは目を潤ませる。
「ずっと…ずっと、見ていました。あなたがどう過ごしてきたか…あなたの中からずっと…」
そんな慈しみ深い声に、ナハトの混乱した頭でもやっと理解できた。彼女がナハトと契約した精霊なのだと。
しかし理解したところで言葉が出てこなかった。声を出したら泣き出しそうで、ナハトは拳を強く握って俯く。それに気づいた彼女はナハトの手を取った。
「泣いて良いのですよ。抱え込まずとも良いのです。…あなたのせいではありません。あなたは、ただ生きようとしただけなのですから…」
「…っ」
そう言われて、頭を撫でられて。ナハトは涙を堪えることが出来なかった。
ビルケとヴィントと和解した後も、どうしてもナハトは己の責任について考えずにはいられなかった。全ては精霊たちの勝手から始まったことだとヴァロに言われて、そうナハトも思いはしたが、開き直ってしまうには伴った結果が大きすぎてしまったからだ。
カルストの日記を読んだせいもあった。たった一人、誰もいなくなった村でナハトを探し続けたカルストは、いったいどんな最後だったのだろう。強く優しい師父を戦いの場に追いやり、追い詰めたのが自分自身であったという事実は、精霊たちから聞いた事実よりもわかりやすくナハトの心を抉った。共にいれば力になれたこともあったかもしれないのに、それに応えるどころか知ったのは千年以上だった今で。助けられず、償いも出来ず、それどころかもう責める者すらいない。
それは本当にーーー本当に苦しかったのだ。
だから泣いてもいい、抱え込まなくてもいいと言われても、ナハトは素直に頷くつもりなどなかった。同意するつもりもなく、なんならそう言う彼女に「何がわかる」と少しの怒りさえ湧いた。
なのに涙が止まらなかった。ずっとナハトを見ていた彼女が言ってくれた言葉だから、だからほんの少しだけ許された気がしてしまったのだ。
「っ…うっ…」
俯いて声を抑えるナハトに、彼女は少し悲しそうな表情を浮かべて抱きしめる手に力を込める。彼女はそのままナハトが泣き止むのを待つつもりでいたのだが、そこに水を差す者がいた。
「ナハト、約束を果たせ」
ビルケの棘のある声にナハトはゆるゆると頭を上げる。強い感情がビルケの不愉快そうな声に引っ張られて引っ込んだ。そうすると辛い感情に"約束を守らなければ"という思いが重なって、ナハトは約束を果たすべく慌てて涙をぬぐった。
「す、すまな…」
「謝らなくて良いのですよ。ナハト」
ナハトの言葉を遮るように、彼女は微笑んで言う。
しかし視線はすぐにビルケに向いた。顔は笑っているが、その表情と合わない雰囲気を察してビルケの肩がびくりと揺れる。
「黙りなさい。今はわたくしがナハトと話しをしているのですよ」
「ですが…!」
「2度は言いません」
ビルケは尊大な言い方であったが、彼女の場合は言い聞かせるような言い方だ。そして驚くことにビルケが大人しく引き下がった。理詰めや脅しでしか引き下がらなかった彼が、「黙れ」と言われて大人しく黙った様子にナハトは驚きを隠せない。
ヴィントも彼女の言葉に逆らうつもりはないらしい。ビルケの横に佇んだままこちらを見ている。
(「ビルケは緑の王と言われていたが…彼女はそのビルケよりも高位の精霊なのだろうか…?」)
そう思うが、王よりも”高位”というのは正直なところ理解が難しい。ナハトの疑問を知ってか知らずか、彼女はナハトを振り返り口を開く。
「わたくしは古い精霊というだけです。それよりもナハト、あなたにお願いがあるのですが…」
お願いと言われて背筋が伸びる。何だと一瞬警戒するも、返ってきた言葉は何ともあっけないものだった。
「わたくしにも名前を下さい。詳しいお話しは、それからゆっくりしましょう」
「……わかり、ました」
ナハトの返事に、彼女はどこまでも優しく微笑んだ。
ついにナハトと契約した精霊が出てきました。
詳しい話は次話になりますが、ビルケたちは1200年とかそのぐらいしか生きていませんが、ナハトと契約した精霊はその倍は生きています。
他の精霊たちもこの後出てきます。
ダンジョン前を守っていた冒険者を眠らせたタロムの花は、ヴァロを眠らせた花と同じです。
ヴァロのように直接濃厚な花粉を吸い込んだわけではないので、せいぜい1日眠り続けるくらいです。
吸い込み過ぎると頭痛やめまいを起こします。




