第31話 魔獣の気配
「おかえりなさいませ、コルビアス様。…どうされましたか?」
「…何でもないよ、フィスカ」
テントへ戻ってきたコリビアスは、その暗い顔をフィスカに尋ねられた。すぐにそれを聞きつけて来たシトレンにも尋ねられるが、何も言わずに首を横に振る。ニフィリムに言われたことを悩んでいるなど、とても2人に言う気にはなれなかった。
「それよりリューディガーの準備はどうだい?」
コルビアスは武器の確認をしているリステアードへと話しかけた。狩猟大会では使用する武器は自前で用意したものと決まっている。リューディガーの場合は愛用している長剣だ。他にも彼はいろいろ仕込んでいるため、それ等の確認を一通り行っている。
リューディガーはコルビアスの問いかけに不敵に笑うと、膝をついて胸に手を当てた。
「滞りなく出来ております。必ずやコルビアス様に最高の獲物をお持ちいたします」
リューディガーは相当やる気のようだ。その様子に、気落ちしていた気分が少し上向きになる。ニフィリムに言われた事はショックであったが、今はそれより目先の事に集中しなければ。
「頼んだよ」
コルビアスがそう言うと、リューディガーは強く頷いた。
リステアードの宣言のもと狩猟大会は始まった。国王であるウィラードは直前で出席を取りやめたため、今大会の責任者はリステアードである。
各テントから現れた代表者が、次々と馬のような獣であるスーリオに跨って駆けていく。リューディガーもコルビアスに一礼して駆けだした。後はもう、リューディガーが戻ってくるのを待つだけである。
フィスカに用意されたお茶を口にしながら、コルビアスはたまに戻ってくる怪我人や小物を倒して喜ぶ初参加の若者たちを眺めていた。
賑わいを見せていた狩猟大会の様子が昼を境に少し変わった。急に怪我人が増えだしたのだ。大型の獲物を手に戻ってくる者も増えだし、俄かに会場が騒がしくなった。獲物は会場に内に幾つか設けられた場所で重さや種類を調べられ、すぐに角や爪、牙を取って皮と肉とそのほかの素材に解体されるのだが、解体が間に合わないほど獲物が集まってきている。
「どうやら今年は豊作のようだね」
「そのようですね」
コルビアスの呟きにシトレンが同意する。まだ昼過ぎだというのに持ち込まれる獲物の量が多い。その分怪我人も多いが、昨年は不作の年と言われていたので怪我人の顔にすら笑顔が浮かんでいる。
(「とはいえ…数が多すぎないか?」)
ナハトの視線の先には怪我人用の救護テントがある。そこで手当てを受ける者の多くは命に係わるほどではないが、手足に引っ掛けられたかのような大きな傷がある。骨を折った者もいるようだが、あの傷はフルブルやオルブルの角に引っ掛けられた際の物とよく似ている気がしてならない。
だがオルブルは魔獣だ。事前の話では、狩猟大会が開かれる森は各ダンジョン都市の城の裏手にある森で、管理が行き届いているため魔獣はいないという話であったはず。ならばナハトが知らない獣による攻撃だろうか。
「あ、あの…レオ」
その時小さな声が聞こえた。振り返ると、少し離れたところでヴァロがきょろきょろと視線を周囲に向けながらこちらを伺うようにしている。
最近ヴァロはずっとこの調子だ。ナハトに対して過度に気を使っている様子を見せているのだが、それはナハトにとってどうにも腹立たしくてしょうがない。腹を立ててもしょうがないことは分かっているのだが、感情の部分ではどうにもならない。怒りをもってしても、未だナハトがヴァロと2人きりで話すのが怖いのと同じだ。
ナハトはため息を心内で留めると、同じ声量でヴァロに問いかけた。
「どうしたんだね、アロ」
「あの…なんていうか…。森の方から変な感じがするんだ」
「変な感じ…?」
随分と抽象的な表現過ぎて、いまいち何が言いたいのかがわからない。ナハトが問い返すと、ヴァロは頷いて続ける。
「うん。なんていうか…魔獣の気配みたいなのを感じるんだ」
「な…!」
ナハトはすぐに森の方の魔力を探った。
しかし―――。
(「くそ…わからない…!」)
貴族は魔力を多く持つものが多い。普段ならばすぐにわかるそれも、人が多いここでは魔獣の魔力だけを感じ取ることは不可能だった。魔獣の魔力があったとしても、多くの魔力の気配に埋もれてわからない。
「確証はないんだ。でも…なんか気になって…」
「…わかった」
ヴァロに確証がなくとも、ナハトも怪我人の様子を見てオルブルの可能性を考えた。それにヴァロの感覚が今まで間違いを起こしたことはないのだ。ナハトに声をかけ難いと思っているのに言ってきたという事は、ヴァロの感じている感覚がそれだけ大きなものである証拠ともいえる。
「コルビアス様、少しよろしいでしょうか?」
「ん?なんだい?」
シトレンと話をしていたコルビアスは、ナハトの声に後ろを振り返った。抑えた声でヴァロが魔獣の気配を感じたことを話すと、コルビアスの顔が一瞬で曇る。
「それは…どのくらい確定的なものだい?」
「すみません、なんとなく…としか…」
「その程度の感覚でコルビアス様にお伝えしたのですか…!?」
ヴァロの返答にシトレンが信じられないといった様子でそう言う。
だが、その感覚が冒険者には何より大事なのだ。決して馬鹿にできるものではない。
「アロの感覚はかなり正確です。魔獣ではなくとも、不審な気配を感じていることは確かです。怪我をした者の傷も獣のそれとは少し様子が違いますし、一度リステアード様にお伝えした方がよいのではないでしょうか?」
狩猟大会も近衛騎士団の警備のもと行われている。そして今大会での責任者はリステアードだ。魔獣の可能性を考えるなら、一刻も早く伝えておいた方がいい。
コルビアスは頷くと、すぐにリステアードの元へ行くと口にした。
「それは本当なのかい?コルビアス」
「はい」
早速リステアードのテントへ向かったコルビアスとナハト、ヴァロは、リステアードが慌ただしく指示を出す合間を縫って無理やり時間を取ってもらった。訝しんだ様子のリステアードであったが、コルビアスの報告を聞いて眉を寄せる。
「事前の森の調査でもそんな報告は上がっていなかったが…」
「ですが、護衛騎士がその気配を感じたと言っていました」
「…この距離でかい?」
どこか馬鹿にするようにリステアードはそう言う。
それは無理もない。王族のテントは一番城に近く、森から最も離れたところにあるため、森の生き物の気配を感じ取るなど到底無理なことだと思われているのだ。事実、リステアードの護衛騎士は呆れたようにヴァロとナハトを見る。
「信じていただけないかもしれませんが事実です。救護所に運び込まれている者たちの怪我の様子も例年と違う感じがします。どうか、信じてくださいませんでしょうか?」
コルビアスの言葉に、リステアードが側近のマシューへと視線を向けた。マシューは上がってくる報告書に視線を落とすと、リステアードに耳打ちするように呟く。
「確かに少々怪我人の数が多く、打撲などと違いひっかき傷や切り傷の者が多いようです」
「…なるほど。一考するだけの価値はありそうだね」
リステアードはにこりと笑うと、ナハトとヴァロ、そしてコルビアスを順番に見て口を開いた。
「コルビアス。おまえには少ないが優秀な部下が多くいるようだ。これからも私のため情報を集めてほしい」
「も…」
「もちろんです」と言おうとして、ニフィリムに「さっさと臣下になれ」と言われたことが頭をよぎりコルビアスは言葉に詰まった。それが何故かはわからない。だが、何故か言ってはいけない事のような気がしたのだ。
「コルビアス…?」
あまりに不審なその様子に、リステアードが怪訝な顔を返す。それに慌ててコルビアスは口を開いた。
「もちろんです、リステアード様。…お邪魔しないよう、私はこれで失礼させていただきます」
「あ、ああ。また何かあれば報告を頼むよ」
「承知しました」
少し急ぎ足でリステアードのテントを出た。ナハトとヴァロはそんなコルビアスを不審に思ったが、人通りの多いこの場所で聞くわけにもいかないため、テントへ戻ることを優先する。
すると、そのコルビアスのテントの前に驚くべき人物が獲物を手に立っていた。
「リューディガー!?」
まだ戻ってくるには早い。しかも手にしているそれはそれほど大きくもないボーだ
コルビアスが視線を向けると、リューディガーは頷いてテントへ視線を向ける。それにすぐはっとして、コルビアスはリューディガーをテントへ迎え入れた。
入口がきっちり閉められたことを確認して、コルビアスは問いかけた。
「何があったの?」
「…正直なところ、まだわかりません。ですが、森の様子がおかしいです。仕留められたわけではないのではっきりとしませんが、魔獣がいるようです」
「…!」
コルビアスはすぐにヴァロを振り返った。コルビアス自身半信半疑であったのだが、これで本当にはっきりした。森には魔獣がいる。そしてそれに追われた獣たちが活発化しているから怪我人も多く、持ち込まれる獲物も多いのだ。
「既にご存じでしたか…?」
「ああ。アロが気づいて、今リステアード兄様にお伝えして来たところだよ」
「アロが…?」
疑うような目で見られてヴァロ苦笑いを浮かべる。
だがそんなヴァロとは反対にリューディガーは少し考え込むと、一度目を伏せて口を開いた。
「コルビアス様、私はもう一度森を調べてきます。魔獣がいるとなれば、どんな魔獣かを調べる必要がございます」
「ああ、頼む。怪我人がこれ以上出る前に、狩れるなら狩ってほしい」
「承知しました。それとアロ」
「は、はい」
急に声をかけられてヴァロは顔を上げた。ヴァロとリューディガーとではそこまで体格に差があるわけではないが、自信に満ち溢れたリューディガーと並ぶとヴァロは小さく見える。
「この距離で気づくなら、魔獣が森から出てきたらすぐにわかるだろう。もしそうなったら、コルビアス様に知らせて逃げろ。他にも魔獣に気づいた者たちがいる筈だが、近衛騎士が動いていない以上、皆自分たちで仕留める気でいるのだろう。追われた魔獣が出てくる可能性があるから気をつけろ」
「わ、わかりました」
リューディガーはそう言うと、コルビアスに一礼してまたスーリオで駆けて行った。残ったボーはコルビアスのテント前にいたマシェルの騎士に預け、重さなどの報告は後でもらう予定だ。
それよりも本当に魔獣がいるなら、一匹やそこらではすまない筈だ。リューディガーが去った後を見ながらコルビアスは息を呑む。コルビアスが間近で見た魔獣といえば、昨年の冬の舞踏会で見たウォルガラとラドローレだ。そのイメージが強いため、またあんなものが襲ってきたらと震えが込み上げてくる。
「…アロ、本当にこの距離から魔獣の気配わかるの?」
「えっ…?えっと…」
「コルビアス様」
何となく感じただけだからどう答えようかと悩んだのだろう。言い淀んだヴァロに代わってナハトが口を開く。
「お疑いになる理由は何ですか?」
「…あっ…」
「不安なのはわかりますが、信じていただかない事にはどうにもなりません。アロは森にいたリューディガーよりも先に魔獣の気配に気づきました。それが全てでしょう」
「…そう、だね…」
ナハトがそう言い切ると、コルビアスは反省したようにヴァロに声をかけた。それにヴァロが気にしてないと答えた次の瞬間―――森に近い場所で甲高い悲鳴が上がった。




