第15話 嫌な予感
「ぐすっ…ご、ごめんなさい…」
コルビアスが大泣きしたことで、緊迫していた部屋の中の空気は落ち着いた。静まり返った中に、フィスカがコルビアスの背中をさする音が響く。
ナハトは息を吐いて魔力を押さえてシトレンの拘束を解いた。一瞬驚いた顔をした彼は、そのままコルビアスのもとに駆け寄りその傍らに膝をつく。
だがコルビアスはシトレンを幼い子供のように両手で押しのけると、涙をぬぐいながらナハトの前まで歩いてきた。
「な、ナハト、ヴァロ…ごめん…ごめんなさいいぃいい…」
そう言ってまた泣き出してしまった。一度出た涙や感情になかなか収集がつけられないようだ。その様子はまるで幼い子供のようで、彼が普段どれだけ自分を押し殺して生きていたのかがうかがえる。
すっかり怒気を抜かれてしまったナハトとヴァロは、膝をつくとコルビアスと目線を合わせて肩に手を置いた。擦り過ぎて赤くなった目元が痛々しい。
「もう、よろしいですよ。ご自分が何をなさったのかわかりましたか?」
「わ、わがっだ…」
「ならば、もういいです」
フィスカに渡されたハンカチで目元をぬぐうと、やっと少しコルビアスは落ち着いたようだ。恥ずかしそうに俯いたまま、両手を体の前で合わせている。
「…本当に、ごめんなさい。…まだ、僕の護衛続けてくれる…?」
「……婚約についてのお話を、きちんとお断りしていただけるなら」
「それはちゃんとやるよ!絶対に婚約の話は断るから…!」
ナハトの言葉にコルビアスはそう言って強く頷いた。それにヴァロも微笑んだが、ナハトの視線はコルビアスを越えてシトレンヘ向く。
きちんと断りを入れてくれるのであれば、ナハトもまだ護衛を続けてもいいと思っている。だが、その前に正しておかなければならないことがある。
「コルビアス様。少し私たちとお話していただけませんでしょうか?」
「…ナハトと、ヴァロと?」
「ええ」
コルビアスは少し狼狽えたが、シトレンとリューディガー、フィスカを見て―――頷いた。
それにすぐさまシトレンが声を上げる。
「いけませんコルビアス様!そんな危険なことはしてはなりません!」
「護衛騎士の俺たちといるのが危険て、意味が分からないんだけど」
呆れたようなヴァロの声にシトレンは詰まる。それでも続けようと口を開くが、コルビアスが出ていくようにと口にしたことで、彼の目が大きく見開かれた。
それに対して、リューディガーは一礼して部屋を出る。
「シトレン。僕はナハトたちと話があるから少し出ていて」
「ですが…!」
「これは命令だ」
「…っ」
そう言い切られて、彼はやっと部屋を出て行った。最後にフィスカがお茶を入れて出ていくと、コルビアスはナハトとヴァロを振り返る。
「…座って話そう」
その言葉に頷いて、向かい合うようにソファへと腰掛ける。少々コルビアスは居心地悪そうだが、ナハトとヴァロの頼みを聞いてシトレンらを追い出してくれた。これで少しは話がしやすくなる。
「それで…何を話すの?…ひょっとして、まだ怒ってる?」
「いいえ。話すのはあなた様についてです」
「…僕?」
きょとんとした顔のコルビアスに、ナハトは頷いて続ける。
「ですが先に…コルビアス様、あなたは先ほど私たちに謝られた理由を、お聞かせ願えますか?」
ナハトのその言葉に号泣したことを思い出したのか、それともやってしまった事の後ろめたさからか、コルビアスは顔を赤くしながらも呟いた。
「…ナハトたちの言葉を信じなかった事、それと2人と交わした約束を忘れて、勝手に婚約させようとした事が…申し訳なかった、から…」
後ろに行くにつれて小さくなる。また泣き出してしまうのかと思ったが今度そんな事はなかった。その代わり俯いてしまって瞳が見えない。
「コルビアス様、私たちはもう怒っていません。顔を上げてください」
視線が合ってから、ナハトは再度口を開いた。
「あなたはとても素直な方です。先ほどまでは私に強要していたことも、今は素直に間違えたと思って謝罪が出来る。これは素晴らしいことだと思います。ですがその分、あなた様は周囲の影響を受けやすいのです」
「どういう…事?」
困惑した様子のコルビアスは、首を傾げながらそう問いかける。今から彼に話すことは少々酷な内容だ。だが、今後もナハトらが護衛騎士であるならば、酷であろうとも避けては通れない事である。
ナハトは一度視線を落とすと、ゆっくりとコルビアスに話した。
「あなた様にとって、一番身近な者はシトレンでしょう。シトレンはコルビアス様の事をいつも一番に考えています。ですが、あとはすべてそれ以下なのです。あなた様のためならば無償で全てを差し出すことは当然であり、特に私たち平民は、あなた様の言葉に対して頷く以外のことは許さない…許せないと、彼は思っています。あなたが一番であるから」
「…そ、そこまでは思っていないはずだよ!僕はちゃんと、シトレンに言ったんだ。平民がいてこその貴族だって。それはシトレンも納得してくれたはずだよ」
コルビアスはそう言うが、護衛騎士になってからもシトレンは何度も"平民が"と口にしている。彼が納得していないことは丸わかりだ。
それに―――。
「コルビアス様、ジモと最後に話したのはいつですか?」
「えっ…」
ヴァロの問いかけに、コルビアスは戸惑ったような顔になった。そのまま考えるが、思い出せないようだ。
それも仕方がない。コルビアスがジモと最後に話をしたのはもう数ヶ月も前である。
「ジモが地下牢から解放されてからも行ってないですよね。あんなに心配してたはずなのに」
「そ、それはシトレンが、料理人1人のために出向くなんて王族らしくないって…」
「…それですよ」
とても小さな呟きだったがコルビアスの耳には届いた。困惑を浮かべたまま、コルビアスは問いかける。
「それ…?」
「はい。コルビアス様は私たちやジモに対して、一定の敬意をもって接してくださっています。だけれど、シトレンは身分に疎い平民が嫌い。だから遠ざけようとするのですが、コルビアス様は素直な気質ですからその影響を受けやすいのです。…現に私が婚約を断った時、あなたは「結婚していないのだからいいだろう」とおっしゃった。あれは、シトレンと事前にそうお話されていたから出た言葉でしょう?」
図星だったのだろう、コルビアスがゆっくりと頷いた。素直な気質が悪いわけではない。だがいくら利発でも彼はまだ子供で幼く、大人の小賢しさには敵わないのだ。
「ジモ、言ってましたよ。地下牢に閉じ込められて辛かったけど、コルビアス様なら助けてくれると思ってたって。だけど帰って来ても会えないということは、何か怒らせるような事をしたのかって…」
「そんな事してない!ジモはいつも優しくて、僕のために美味しい料理を作ってくれて…!」
「それ、ちゃんと言ってあげてくださいよ。寂しがってましたから」
ヴァロの言葉に、コルビアスはようやくシトレンの言動がどういう影響を与えていたのか理解したようだ。俯いて、拳を握る。
シトレンの行動は、コルビアスの立場を考えれば実はそう悪いとは言えない。貴族として、王族としてならば、きっとシトレンの徹底した王族至上主義は正解なのだろう。
ここでの1番の問題は、コルビアスがそれを良しとしていない事だ。平民にもよくしたいというコルビアスの言葉を、シトレンが無視していることが問題なのだ。それは幼い主を裏から操ろうとしている、そう言われても否定できない事。彼がどれだけ気に入らなくとも、主であるコルビアスの言葉が本来は優先されなければならない。
「…そういう、事なんだね」
「言っておきますが、シトレンはあなた様のことを常に考えて行動していると思います。違うのは、彼の心根の部分です」
「心根…」
コルビアスは胸に手を当てた。
シトレンはコルビアスが幼い頃から、それこそ物心つく前から一緒にいた執事だ。貴族の事、王族の事は、ほとんどシトレンから教わった。嬉しい時も、悲しい時も、怒りに震えた時も、罵られた時も、ずっと傍にいて支えてくれた執事だ。
だから、ナハトが言っていることがわかる。シトレンは、コルビアスのことを第一に考えている。それは全てにおいてだ。全てにおいてコルビアスを優先すれば、コルビアスのために動けば―――その犠牲はどうしたって周囲に行く。
分かっていたのに、きちんと見ていなかった。シトレンがそう思ってくれていることも分かっていたのに、それがどういう犠牲のもとに立つのかを考えていなかった。シトレン自身の考えだって、直接は聞いたことがない。
「…分かってたのに、分かってなかったんだね、僕は…。シトレンの説得も、ちゃんとしてなかった」
項垂れたコルビアスの頭に、「でも」と明るい声が降ってくる。
「今分かったんだからよかったじゃないですか。もうジモの事、ほったらかしにしないでくださいね。それと、ナハトも俺も貴族にはなりたくないですから、もうこんな事はしないでください」
「…うん。肝に銘じるよ。ちゃんと、シトレンとももう一度話をする」
そう言ってコルビアスは微笑んだ。
少々厳しいことも言ったが、コルビアスにはきちんと伝わったようだ。ならばもうこれ以上の話は必要ない。ナハトが話を切り上げようとしたその時、コルビアスが「そういえば」と呟いた。何か質問でもあるのかと首を傾げる。
「どうかされましたか?」
「あ、少し気になって…。2人は、実は恋人同士だったりするの?」
ああそれかと、ナハトは息を吐いた。ナハトが女性であるという話になればヴァロと同室であることが気になるだろう。だからそう聞かれるだろうとは思っていた。これほどすぐに聞かれるとは思わなかったが。
「ちちちち違います!お、俺とナハトは、か、家族みたいなもので…!」
「落ち着けヴァロくん。君の否定の仕方はあらぬ誤解を招きかねない」
ものすごい勢いでヴァロが否定の言葉を口にし、首と手を音がしそうなほど横に振って、真っ赤な顔で否定する。ヴァロが真っ赤な顔になるのはいつもの事なのだが、今はそれが全面的に悪い方向に出ている。
落ち着くように彼の背中に手を当てると、コルビアスが何か言う前にナハトは口を開いた。
「コルビアス様。先にお伝えしておきますが、ヴァロくんはすぐに赤くなります。男性であろうが女性だろうが関係ありません」
「え、あ…そうなの?」
「はい」
「…ううぅぅ…」
俯いてうなるヴァロは置いておいて話を続ける。
「それと、私は女性であることを隠して生きています。それは今後も変わりません。なので、コルビアス様も私の事は今まで通り男性として接してください」
「で、でも…部屋は分けないと」
「それも必要ありません」
きっぱりと言い切ると、コルビアスが驚いたように目を見開いた。そのままでいる理由としてはいくつかあるが、一番はヴァロのためだ。どういう訳か、ヴァロはナハトが女だという事を忘れる。一度はあまりに意識されたせいでパーティを解散しようとも思ったが、その一度を除けば彼がナハトを女として扱ったことはない。
だがもし部屋が別になれば、嫌でもヴァロはナハトを女性として意識するだろう。それだけは、どうしても避けたい。
(「ヴァロくんとはこの仕事が終わってもまだパーティだからな…」)
少しだけ笑って、ナハトは口を開く。
「ともかく必要がないのですよ。ヴァロくんはすぐに忘れますから」
「え…」
「あ、あはは…」
苦笑いを浮かべるヴァロに、コルビアスもひきつった笑顔を返した。
その後はナハトたちが退室し、代わりにシトレンとリューディガー、フィスカが部屋の中へと入った。疲れているだろうに、コルビアスは夕食の前に先に話をすると決めたようだ。
ナハトらはそろって1階へ降り、コルビアスからの伝言をジモに伝えると、部屋に戻って2人してごろりとベッドへ寝転がった。いろいろあった疲れが今になってどっと押し寄せてくる。
「はぁ~…」
「ナハト、大丈夫?」
思わず出た大きなため息にヴァロが心配そうな声で問いかけてきた。みっともなく押し付けた枕から顔を上げてそちらを向くと、ベッドから体を起こしたヴァロが腰かけてこちらを見ていた。
「……少々心労がな…」
「そう、だよね…」
コルビアスは断ると言ってくれたが、提案してきたのはリステアードだ。あちらが目上である以上、断るにはそれ相応の理由が必要になるだろう。
(「通常同じ立場で行う交渉も、今回は庇護を求めている側とそれを与える側だ。簡単には頷いてもらえないかもしれない」)
そうなればまたナハトの性別の話が出るだろう。あまり多くの人に知られるのは嫌だが、断るには一番の理由だ。男性貴族と無理やり婚約させられることは、コルビアスの反応を見る限り阻止してくれそうだが―――。
「…もっと早く止めるべきだったか」
後悔してももう遅い。コルビアスがもし止められなかったら、逃げるしかないかと思う。だがそれは果たして叶うだろうか。相手はこの国の王族である。どうにも嫌な予感がぬぐえない。
「ナハト、何か変なこと考えてる?」
「…いいや」
目敏いヴァロには何も言えない。リステアードの前でも我慢できなかったヴァロにこの懸念を言えば、今度こそ彼はナハトを抱えて逃げようとするだろう。「いざとなったらナハトを連れて逃げるよ」とは、彼の口癖だ。
そこまでナハトの事を心配してくれる事は嬉しいが、それをさせるわけにはいかない。
「ナハト?」
「何でもないよ。ああ、それよりも君に言っておかなければならない事がある」
「な、なに?」
怒られる気配を察知してか、少し狼狽えてヴァロが体を起こす。それに少し笑いながらも、ナハトも体を起こしてヴァロの方を向いた。
「怒られるつもりがあるようだな」
「…うん。お茶会の最中に、反応しちゃったことでしょう?」
さすがに分かっていたようだ。ナハトのために怒ってくれるのは嬉しいが、あの場では不敬であるとヴァロが処分されかねなかった。そんな危ない状態であったのだ。
「コルビアス様は私たちに寛容だが、他の貴族やましてや王族ともなれば簡単に命を取られかねない」
「…ごめん」
「さすがに君を王族から守るのは骨が折れるからな」
またベッドに転がりながらナハトがそういうと、ヴァロは何のことなのかわからないようで瞳を瞬かせる。
「君が言ったんじゃないか。守る代わりに守ってくれと」
「あっ…!」
「忘れていたとは酷いじゃないか。君に何かあれば、私が困るんだぞ?」
「ご、ごめん!あっ、ごめんていうか、忘れてた訳じゃなくて…!えっと…と、とにかくごめん!気をつけるから!」
「そうしてくれ」と、少々投げやりに呟いてナハトは枕に顔を埋めた。今日は精神的にひどく疲れた。ドラコに会いたい。
「…また、手を貸してくれるかい?」
「も、もちろん…!」
いそいそとヴァロはナハトのベッドに腰掛けて手を伸ばした。それを迎えるようにゆっくりと伸ばされた手に、また"ドラコの代わり"を求められていると気づき―――そのままナハトの頭を撫でた。
よほど驚いたのか、きょとんとした顔でこちらを見るナハトに思わず笑いがこぼれる。
「なんだね。いきなり…」
「え、えっと…不安なんだろうなって思ったら、つい…」
子供扱いに少々腹は立ったが、大きな手で撫でられるのは気持ちがいい。反発するのも面倒で、ナハトはそのまましばらく撫でられていた。
ナハトはヴァロが女である事をすぐ忘れると思っていますが、実際は違います。
以前は単純にナハトの事を"大切な友人"と思っていたので、ナハトの言動で性別のことはしょっちゅう頭から抜けていました。
ですが今は、忘れていません。以前と同じように接しられているのは、単純にヴァロの努力によるものが大きいです。