ステイ ヒア
朝はスマホのアラームで目を覚ます。
充電マークは満タン表示、電力は今日も安定して供給されているのだと安心する。
キッチンへ向かい、ヤカンを火にかける。
スイッチを押すと、チキチキチキチキ、ボッと安定した音を立てて、青い火が灯った。
とりあえず今日もコーヒーを飲むことができそうだ。
俺は吊戸棚を開けてコーヒーフィルターと、アーミーグリーンのバカでかい缶を取り出す。
残りは少なくって、缶の中に入れた金属製のコーヒーメジャーが缶底にあたって軽やかな音を立てる
長年コーヒーといえばこれを愛飲していたが、次が手に入るかどうか……人類はいま、滅亡の瀬戸際に立たされている。
十年前、東京のとある病院で、死亡が確認された後の『死体』が病院職員に噛みつくという事件が起きた。
いや、東京ではなく、それは地球上の各地、いろんな国で同時多発的に起きた『事件』だった。
自然発生した新種のウィルスだとか、テロリストが作り出した生物兵器だとか、宇宙から飛来した未知の鉱物が放つ放射能がとか、荒唐無稽な説が様々囁かれたが、今となってはどれが真実だったのか、どうでもいい。
大事なのはこれが人類を滅亡へと導くものだったという事実の方だ。
『死体』に噛まれた病院職員は何の前触れもなく街中で発症して、道行く人に次々と噛みついた。
警官が到着して発症した彼を取り押さえるまでに被害者は60人――捕物の際に噛まれた警官も合わせると67人。
これがまた、ある日、何の前触れもなく発症して近くにいる人に噛みつく。
そうして被害は拡大していった。
発症者がまず陥るのは心肺停止、つまり街中でばたりと倒れて『死体』になる。
目の前で人をが倒れるのを見かけた親切な人が、どうしたことかと心配して駆け寄ると、この『死体』が急に起き上がって噛みつく。
最初のうちは噛まれた人を隔離し、『死体』と化した人を焼却処分する対策がとられていたが、それだって『死体』の増加スピードにはおいつかなかった。
日々『死体』は数を増やし、逆にそれを押さえるべき政府や警察、自衛隊などは『死体』化して数を減らす。
人類の三分の一が『死体』と化したところから、人類が滅亡に抗するための機能は全てマヒした。
今や町は『死体』がうろつき、残された人類は息をひそめて自分の身を守ることに精一杯というありさまだ。
いったい、どのくらいの人類が生き残っているのか、情報インフラを全て失ったので知るすべはない。
それでも、人類はまだ全滅したわけじゃない。
俺はコーヒーカップを流しに置き、洗面所へと向かった。
蛇口をひねれば勢い良く水がほとばしる。
水道も普通に機能している。
――そう、人類はまだ、全滅していない。
俺の仕事は水道局員だ。
職員数は減ったが、それでもシフトが回せる程度にはみんな『生きて』いる。
俺が職場につくと、今日の相棒であるジャックはすでに制服に着替えたあとだった。
しかし、ジャックの前に立つのは夜番職員が、たったひとり。
俺は不安になる。
だけどそれを顔に出さぬよう、頬の筋肉を精一杯持ち上げて笑顔を作る。
「よう、リンシー、おはよう」
彼は顔をあげた。
憔悴しきった顔だった。
「おはよう、デイビッド」
「おいおい、ひどい顔だなあ、まあ、徹夜番は堪えるよな、仮眠室でちょっと寝てから帰った方がいいぜ」
「……いや、今日はもう、帰りたい」
俺は笑顔を崩さないようにするだけで精いっぱいだった。
『死体』がはびこるようになってから何度も聞いたセリフだが、いまだにこの瞬間に慣れない。
「ジョーイが死んだよ」
リンシーが肩を震わせる。
「夜のうちにやつらが入り込んできて……俺はほっとけって言ったんだが、ジョーイのやつ、貯水池によだれでも垂らされたら大変だからって……」
ジャックが眉をハの字に下げる。
「ああ、ジョーイのやつ、よだれで感染するんだって頑なに信じていたからな」
『死体』化の感染経路は明らかになっていない。
それを解き明かす前に研究機関は機能を失った。
しかし噛むことによって感染するのだから、よだれにも何らかの発症に向かう物質が含まれているのだろうと考える輩は多い。
もちろん、それをどのぐらい摂取すれば発症するのか、または水道の水源に混入した場合にどのような影響を与えるのか、研究機関を失った今となっては正しいデータなど手に入るわけがない。
だから職員たちは自分の判断と憶測のみを信じてここを守るしかないのだ。
「ジョーイは正しかったよ、飲み水にやつらのよだれが混じったらどんな影響があるかなんて『実験』をするのはごめんだからな」
俺が言うと、リンシーの顔が少し明るくなった。
「そうだろう、あいつはここを守って死んだ、そうだろう?」
「ああ、そうだ」
「そうだよな」
ホッとしたかのように肩を落とすリンシーに向かって、俺は言った。
「今日の昼番の仕事は、構内の見回りと外周フェンスの補強だな。二度とやつらが入ってこないようにしっかりと見ておくから、お前は帰って休め」
「ああ、そうするよ!」
出ていくリンシーを見送って、ジャックが言った。
「なあ、あいつ、このまま来なくなるんじゃないかな」
職員の数が減ったのは『死体』だけが理由じゃない。
ここ半年、給料は一切払われない。
それだけでも離職の理由としては十分だ。
残ったのは、それでもライフラインである水道を守らねばという、強い意志を持つ者だけ。
それだって仲間が『死体』に食われる様子を間近で見たり、家族を失ったり、精神を病んで離職するものが後を絶たない。
ジャックは、ふっと俺から顔を背けた。
「俺たちは……いつまでここを守ればいい?」
「人類が全滅する、その日まで……」
俺の答えは、たぶん不安に揺れたか細い声だったはずだ。
それでもジャックは「そうか」と短く答えてくれた。
たったそれだけだった。
俺たちは早速、水道局を取り巻くフェンスを見回った。
『死体』はフェンスを乗り越えるほどの知性を持ち合わせてはいない。
だとしたらフェンスのどこかにほころびがあるということだ。
そのほころびは、案外簡単に見つかった。
「おい、デイビット、ここだ」
ジャックが指したそこは、フェンスが劣化して丸ごと一枚、支柱から外れて落ちていた。
「くっそ、メンテに出そうにも、設備屋が生きているかどうか……」
ジャックは忌々しそうに舌打ちして、フェンスを立てて支柱に戻そうとした。
金具が劣化して外れているせいで、それは完全に徒労だったのだが。
「仕方ない、工具箱を持ってきてるだろ、なにか応急処置に使えそうなねじとかボルトがないか、見てくれ」
俺が手元の工具箱を開けると、おあつらえ向きに太い針金が入っていた。
『死体』はすでに運動機能以外が『死んでいる』状態であるため、フェンスなんか、頑丈にくくって立ててあれば壊すことはできないはずだ。
「お、いいね、その針金と、そこにある鋼材も補強に使えるな。そのうちどこかから溶接機をかっぱらってくるとして、今日のところはそれで十分だ」
俺は針金を渡しながら聞いた。
「溶接機なんて使えるのかよ」
「使えるさ、俺、この仕事に就く前は板金屋だったんだからな」
「それは心強いな」
ジャックはフェンスの網目に針金を通して、それを強く引き締めながら支柱に縛り付けてゆく。
不器用な俺はこういった作業には向いていない。
手持無沙汰にフェンスの向こうを眺める。
そこは陽の当たる明るい河川敷だった。
人類が知と文明を駆使して整備した河川敷は今日も揺らぎなく、その上には鉄道を走らせていた立派な鉄橋が悠々とそびえたっている。
その光景は終末前と何ら変わりない。
もしも今この瞬間に、あの鉄橋の上を電車が駆け抜けていったとしても、俺は驚かない。
しかし実際には交通インフラはすでに機能しなくなっており、あの鉄橋の上を電車が走ることはない……二度と。
温かい日差しを浴びて頑強に見えるあの鉄橋も、近くに寄ってみれば、すでに朽ち始めていることだろう。
手入れする人を失った人造物というものは、ゆっくり、ゆっくりと腐れてゆくのだ。
河川敷の上を、何体かの『死体』が歩き回っていた。
だいぶ草に覆われはしたけれど、人が踏み固めてコンクリートを流した遊歩道は今も健在だ。
そこを、ゆらゆらと不規則に揺れながら歩く『死体』たちは、遠目に見ると散歩を楽しんでいるようにも見えた。
まったく何一つ終末前と変わらぬ光景……しかしそれは見た目だけのことで、それはいまにも腐りおちようとしている滅びの光景……。
俺はやるせなくって、作業中のジャックに話しかけた。
「なあ、ジョーイは……どこに行ったんだろうな」
『死体』化の厄介なところは、すぐには発症しないことだ。
だがいずれ、突然に発症する。
だから俺たち水道局員は、やつらに噛まれたら人との接触がない場所へ自ら閉じこもることを不文律としている。
だからジョーイもどこかへ身を隠したのだろうかと。
しかしジャックは冷酷だった。
「どうかな、あいつは潔癖なところがあったから……それにリンシーは、まるであいつがもう死んでるみたいな言い方をしただろ、つまり……さ」
さすがのジャックも、それを言葉にすることはためらわれたらしい。
彼は自分の人差し指をこめかみのあたりに当てて、引き金を引くふりをした。
そういえば、確かにジョーイはそういうタイプだ。
手を洗うために自分用の爪ブラシを強要の手洗い場においておくような潔癖だったし、自分が腐れかけた体を引きずりながら徘徊する『死体』になることを想像したら、それは耐えがたい苦痛であったに違いない。
「ああ……」
俺は呻きながら、胸の内だけでジョーイの冥福を祈った。
そんなことをしても気休めにしかならないが、祈らずにはいられなかった。
ゆっくりと腐れおちるよりも、自らの人生を潔く終わらせることを選んだ、潔癖で勇敢なジョーイ!
残念ながら俺は君のような生き方はできないだろう。
ここが腐れおちつつある世界なのだと知っていてもなお、人類は絶滅したわけではないのだと、そんな幻想に縋ってしまう小心者なのだから――
フェンスの補修を終えたジャックが俺に言った。
「行こう、他にも緩んでいる部分があるかもしれないからな」
俺は祈りを切り上げて顔を上げた。
「ああ、それにもし、やつらが構内にいるなら、明るいうちに始末してしまいたいからな」
祈りとしては短かったが、仕方がない。
イマドキじゃ葬式も執り行われない、司祭もいない。
死者に手向ける祈りというのは、自分が生き残るのだと決意を新たにするだけの、簡素で儀礼的な行為である。
「そうだな、ジョーイの分も俺たちが頑張らなくっちゃな」
俺はまだ生きている、そして、人類はまだ全滅したわけじゃないのだから。
夜番に引き継ぎを済ませ、俺は家に帰った。
まずはテレビをつける。
放送局は全滅していて、どのチャンネルに合わせても砂嵐しか映らないのだが、通電している――つまり電気は無事であるということに安心する。
今夜のディナーを決めようと、俺は流しの下の扉を開けた。
そこにはつぶれたグロサリーストアからかっぱらってきた缶詰やら瓶詰がどっさりと突っ込んである。
その中から適当に二つ、温かいものも欲しいかと粉末スープのパッケージを一つ。
俺はやかんを流しに持って行き、蛇口を開いた。
水の不安はない。
水道局勤めの俺が言うんだから間違いない。
やかんをガス台に置き、スイッチを押す。
チキチキチキチキと軽快な音がキッチンに響いた。
しかし、ボッという着火の音はしない。
俺はスイッチをオフにして、再点火してみた。
チキチキチキチキチキチキチキチキ……。
「そうか、ガス屋は死んだか……」
温かいスープにはありつけなかったけれど、これでコーヒーの残りが少ないことを気にしなくて済む。
俺は吊戸棚の中からアーミーグリーンの缶を引っ張り出した。
相変わらず、缶の中でコーヒーメジャーがカラカラと音を立てる。
俺は缶のふたも明けずに、それをゴミ箱に突っ込んだ。
分別なんて知ったこっちゃない、ごみ収集は三か月前から来ていない。
すっかり食欲をなくした俺は缶詰をテーブルの上に投げ出して浴室に向かった。
湯が出ないことは知っているが汗だけは流したい。
冷たい水でざっとシャワーを済ませてリビングに戻ると、テレビは相変わらずノイズで満たされた砂嵐を映していた。
それを消して、代わりに流しの蛇口を細く開けてみる。
ちょろちょろと絶え間なく流れる水が、俺の心を少しだけ慰めてくれた。
俺はまだ生きている。
人類はまだ……全滅したわけじゃない。




