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赤い糸がうなりを上げた

作者: 千賀藤兵衛

 子供のころ、祖母から赤い糸の話を聞いた。誰でもこの世に運命の相手が一人いて、たがいの手と手が赤い糸でつながっているのだという。自分の手を見ても赤い糸などついていないので、運命の相手がいないのかとがっかりしていたら、祖母は笑って、その相手に出会えばちゃんと見えるようになると言った。


 その朝、僕はいつものように仕事に行くところだった。地下鉄の駅に着いて、下りエスカレーターで改札に向かう。この下りエスカレーターはすぐ横に階段、そのまた横に上りエスカレーターが並んでおり、僕はそちらを上ってくる人々の顔をぼんやり眺めていた。そして、その女の子は上りエスカレーターに乗ったところだった。その子も顔を上げて僕を見た。二人の目と目が合った。

 ふと手に重さを感じて目を落とすと、手首に太い糸が結わえつけてあった。糸というよりも縄といったほうがいいような太さだ。その先を目でたどると、エスカレーターの手すりを越えて階段を這い、再び手すりを越えて上りエスカレーターのあの女の子の手首までのびていた。色は目の覚めるような赤。

 誰がいつのまにこんな糸を結んだのだろう、などとは考えもしなかった。ただ、そうか、この子なんだ、と思った。むかし祖母の言っていた、赤い糸でつながる運命の相手。

 その子は近くの高校の制服を着ていた。今年二十五歳で社会人の僕にとっては、高校生というのは世間体を考えるとちょっと難しい相手だ。だがそんなことはもう何の問題でもなかった。だって運命の相手なのだから。

 僕を乗せたエスカレーターが下ってゆき、彼女を乗せたエスカレーターが上ってくる。はにかみのまじった笑顔がかわいらしい。僕の顔にもほほえみがうかんだ。一秒か二秒のあいだ、僕らは出会うことができた幸せをわかちあい、かみしめた。

 そのとき、階段の下のほうでやかましい足音といくつかの叫び声が乱れ飛んだ。すこし遠くからひときわ大きな声、女の人の。

 「どろぼう、どろぼう! だれか、つかまえて!」

 僕らも見つめ合うのをやめて、そちらに顔をむけた。地味な背広を着た男がひとり、手には女物のハンドバッグをわしづかみに、あたりの人を押しのけながら階段を二段飛ばしで駆け上がってくる。そのずっと後ろ、ようやく階段の下によろよろとたどりついたのは若い婦人。お腹が大きい。妊婦さんか。察するに例の男はこのご婦人のバッグをひったくって逃走しつつあるところだ。卑劣な野郎だ。

 僕と女の子は目を見交わした。言葉はひとつもいらない。たがいの目を見ただけで考えが通じ合った。階段を駆け上がってきたひったくり男が僕らのあいだに差しかかり、僕とそいつと彼女が同じ高さで一直線に並ぶ。今だ。

 「それっ!」

 僕と彼女はそれぞれ自分の手首の糸をつかむと、ぐいと引いた。たるんでいた糸がぴんと張った。糸はどうやらひったくり男の目には見えていなかったようだ。やつはよけようともせずに突っ込んできて喉首を糸に引っかけ、走ってきた勢いのまま足を前に投げ出して、背中からドスンと階段の上に落ちた。まわりにいた人たちが集まってきて押さえつけた。

 「このやろうおとなしくしろ」「ふてえやつだ」「だれか駅員呼んできて」

 騒動のあいだもエスカレーターは動きつづけ、僕らはすれちがって遠ざかりつつあった。後ろを振り返っている僕らは、はた目にはひったくり男の捕り物を見物しているように見えただろうが、じつはその向こうにいるたがいを見つめていた。知り合ってからまだ何秒もたたないというのに、ぴったり息を合わせて卑劣漢を捕らえたのだ。僕らは最高の二人だ。そう確信した。

 そして、それぞれがエスカレーターの下り口に着くよりも早く、赤い糸は消え失せた。あたかもはじめからそんなものはなかったかのように。


 何か月かたってから、同じ駅であの妊婦さんを見かけた。そのときはもう妊婦ではなく、腕に赤ちゃんを抱いていた。ひとめ見ただけなので男か女かもわからないが、おそろしく賢そうな目をした赤ちゃんだった。母親の腕のなかから、その子は僕をじっと見つめた。そして僕はさとった。あの赤い糸の意味を。

 あれは僕とあの女の子を結ぶための糸ではなかった。この赤ちゃんが無事に生まれるようにするためのものだったのだ。もしもあのとき僕と彼女がひったくり男を捕まえなかったら、きっとやつはまんまと逃げおおせてしまい、バッグは妊婦さんの手に戻らなかった。そしてそのバッグには何か大事なものが入っており、それをなくすと回り回って赤ちゃんが無事に生まれてこられないことになったのだ。

 この赤ちゃんは将来なにか大きな仕事をするのだろう。僕と彼女はその仕事のためのいしずえだったのだ。運命はこの子のためのものだった。


 あの女の子とも同じ駅で何度かすれちがった。だが、もはや僕と彼女のあいだには何の感情もなかった。会釈することすらなかった。けれど、あのたった何秒かのあいだに感じた満ち足りた気持ちだけは、死ぬまで忘れないだろう。


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