聖女の水瓶。
目にとめていただきありがとうございます。
第2回「下野紘・巽悠衣子の小説家になろうラジオ」大賞応募作品です。
少しでも楽しんでいただけると嬉しいです。
キーワードは「聖女」です。
「優しいお話が好きなんです。」
文芸部の部室で、彼女はそう言って微笑んだ。
「本を読んでいると笑ったり怒ったり、色んな感情が生まれるんですけど、優しいお話を読んで流れる涙って、なんとなくあったかい感じがしませんか?」
同意を求めるように俺の目を見て、彼女は続けた。
「もしも私が天国に行けたら、そんなあったかい涙をためて、疲れた人たちに届けたいんです。」
フフッと恥ずかしそうに笑う彼女はとてもきれいで、“聖女”という表現がピッタリに思えた。
「それ、いいね。俺も何か手伝えるかな?」
何気ない俺の言葉に彼女は少し驚いたように目を見開き、顔を真っ赤にして俯いた。
「あの…私、先輩の書く文章がとても好きなんです。だから…。」
一度言葉を切り、決意したように顔を上げる彼女。
「だから、ずっと隣で読ませてもらえたらって思ってます。」
「え…?あ、いや、それって…。」
2人で顔を真っ赤にして見つめ合う。
あの日、俺もやっと自分の気持ちに気付いたんだ。
それから俺たちは2人で色んな話を書いた。
自分たちでサイトも作って、色んな人が読めるようにもした。
それは趣味と変わらないレベルではあったけれど、それでも俺たちは楽しかった。
そしてこんな幸せな日が、ずっと続くと思っていたんだ。
数年後。
彼女を失ってから、俺は書けなくなった。
こみ上げてくるのは悔しさや病魔への怒りばかりで、彼女が好きな優しい話なんて何も出てこない。
文章どころか気力すら失った中で、酒でも買うかと久しぶりに外へ出ることにした。
歩きながらどうしても彼女を思い出す。
2人で歩いた道、入った店、選んだ品…。
目に入るもの全てが彼女に繋がり、俺は泣くのを堪えきれなくなってしまう。
「ちくしょう、こんな、いい大人が泣きながら歩くなんて…」
その時、溢れた涙を隠すように雨が降り出した。
思いがけない雨に一瞬イラつきを感じたが、俺はまたすぐに“あの日”を思い出す。
俺に降り注ぐ、優しい優しい雨。
これはきっと、彼女が天国でためた、優しい涙。
『ずっと、書いてね…。』
ふと浮かぶ、力なく微笑む彼女の最期の姿。
そうだ。約束したんだ。
そして俺はまた書き始めた。
彼女との、優しい思い出。
聖女の水瓶に、また優しい涙がたまるように。