第五話 ヴァレリア・ベルモンドという女
「まあまあ、これは可愛らしいお客様がいらっしゃいましたね」
笑顔で迎えてくれたのは赤い僧服をまとった淑女だった。
すこしウエーブのかかった長い黒髪。
青い瞳。
整った顔立ちに細いフレームの眼鏡をかけている。
年齢は果たしていくつくらいなのだろうか。
シワひとつない顔と背筋の通った上品な立ち居振る舞いからは、老いの陰はまるで感じられない。
だが二十や三十の若さで長官だの枢機卿だのといった重職には就けないだろう。
やはり五十過ぎ、若くして出世したとしても四十にはなると思われるのだが、とてもそんな年齢には見えない。
総合すると若々しいのに老人めいた落ち着きがあるという、何とも独特の風格を持った女性。
それが軍務省長官ヴァレリア・ベルモンドという人物の第一印象であった。
「まあ、つまりあなたはご自身の意思でこの地に来たわけではないと」
勇輝の要領を得ないたどたどしい説明を、ヴァレリアは実に根気強く聞いてくれた。
だがその会話は信じられないほどかみ合わない。
「それにしてもそのニホンとは、いったいどこにある国なのでしょう。全く聞き覚えがありませんが」
信じられない事にヴァレリア、ランベルト、クラリーチェの三人は日本も東京も知らないというのである。
世界的に有名なはずのこの名前を全く知らない。
勇輝にとってはかなり意外な展開だった。
勇輝は学生としてあまり優秀な方ではないが、それでも世界の大都市くらいいくつも知っている。
ニューヨーク、パリ、モスクワ、ロンドン、北京……数えればきりがないほどたくさん思い出せる。
それなのにこの連中ときたら。
「ニューヨーク? パリ? あなた方は知っていますか?」
たずねられた美形の軍人二人は、首を横にひねっている。
知らないと言うのである、信じられない事に。
「知らないの、本当に? マジで?」
「ええ、まったく」
ランベルトは悪びれた様子もなくそう答える。
まったく嘘みたいな話だった。
この三人が教養のある人物だという事は態度と言葉づかいで何となく感じ取れる。
それなのになぜかこんな簡単な知識を持ち合わせていないというのだ。
「むしろあなたの方がデタラメを言っているのでは?」
クラリーチェの冷たい言葉に、勇輝は頭を抱えた。
「んなことねぇって……」
不毛な会話を交わしている三人をよそに、ヴァレリアは何やら思案している様子だった。
それからもこの話は続けられたが、どうにもらちが明かない。
そこでとりあえずこの話は保留して、別の話をすることとなった。
「ではあなたは、その女性の姿は本来の姿ではないと、そうおっしゃるのですね」
「はい」
「あらあら……」
ヴァレリアは頬に手を当てて驚いている。
のんびりとした口調で質問は続けられた。
「例えばその女性の姿に心当たりはありませんでしょうか、お母様やお姉様、またはご親戚など、あなたの身近によく似た女性がいるとか……?」
「似た女性、ですか?」
勇輝は壁に備え付けられていた鏡で、あらためて自分の姿を確認した。
「さあ、こんな美人と知り合いになった覚えはありませんね」
「プッ!」
ランベルトが吹き出した。
たちまち勇輝の表情が険悪になる。
「なんすか、俺が何かおかしな事を言いましたか」
「いや失礼」
ランベルトは苦笑しながら非礼をわびた。
「しかし自分の顔を見て『こんな美人』とは何とも……」
くっくっと肩をゆすって笑うランベルトに向かって、勇輝は舌打ちする。
「そりゃあんたにしたらコレが俺の顔なんだろうけれどね、俺にとっちゃ全くの別人だよ。アレが本当の俺なの、あのブサイクが本当の俺なんだよ。悲しいけどそれが現実なのよね!」
勇輝はヴァレリアに手渡している生徒手帳の写真を指差してそう言った。
これは手ぶらだった勇輝にとって、数少ない所持品の一つである。
後は家の鍵と財布、スマートフォンだけ。
それはさておき、ランベルトは勇輝が指差す写真の醜男を見てまた笑った。
「ハッハッハ、そう卑下する事もないでしょう。確かに舞台役者にはなれない顔かも知れませんが、戦士になるには迫力があって良いかと思いますよ。そんなに悪い顔じゃありません」
「あのな、その『舞台役者みたいな』色男にそんなこと言われたって、こっちはちっとも嬉しくねえっつーの!」
ムキになる小娘がそれほど面白かったのか、彼は芝居じみた悪ふざけを始めてしまう。
「おお何という事でしょう。私はこんなにも貴女の事を気づかっているというのに、貴女はなぜその様な心無い事をおっしゃるのです。主よ、この者をお導きください……」
もっともらしいセリフを言って胸に手をあてるランベルト。
ただし口元がニヤニヤとゆがんでいるで、イヤミな事この上ない。
「この、喧嘩売ってんのかテメエ!」
「おやおや、私はあなたの命の恩人なのですよ。そんな口を利いても良いのですか?」
「ふんがぎぎぎ……!」
ああ言えばこう言う彼に対して、勇輝は顔を真っ赤にして歯ぎしりする事しかできない。
「おやめなさいランベルト、お客様に対して失礼ですよ」
どこまでエスカレートしていくか分からないこの低レベルな争いを、ヴァレリアが穏やかにたしなめた。
「……はっ」
「まったくあなたらしくもない、騎士として恥ずべき態度ですよ」
「申し訳ありません」
ランベルトはたちまち小さくなって頭を下げた。
「ケッ、バーカバーカ、レロレロレロ……」
「ユウキさんも」
舌を出していた勇輝も、非難が自分に向けられたので慌ててひっこめた。
「十五歳といえばもう立派な成人なのですから、子供のような真似をしてはいけませんよ」
「す、すいません」
しょんぼりと丸めたその背中に、ランベルトの冷笑が突き刺さる。
一方クラリーチェはというと一喜一憂する二人の様子をにらみつつ、くわえていた棒をイライラと上下させていた。
……余談ではあるが、どうやらこの国では勇輝はもう大人の年齢に達しているらしい。
国が違えば常識も違う。
ごく当たり前の話ではあるが、あと数年は気楽な未成年者でいられると思っていた勇輝にとってちょっとしたショックであった。
「さて、先ほどの続きですが」
気を取り直してヴァレリアが質問を再開する。
「は、はいっ」
そう、くだらない口喧嘩などしている場合ではなかったのだ。
勇輝は今まさに人生の一大事に直面していたのである。
「そのお姿の女性に、心当たりはないのですね?」
「はい」
これには自信を持ってハッキリとうなずける。
「それでは質問を変えます、あなたの国ではそのように紅い瞳をした人間は多いのですか?」
「えっ、いないと思いますよ?」
その返事に、ヴァレリアの眼がすっと細くなった。
「いない、一人もですか?」
「は、はい、俺の国は、日本は、基本的に黒……っていうか茶色ばっかりです、はい」
「まあまあ、そうですか……」
ヴァレリアは鋭い眼光をそのままに沈黙した。
それを見て勇輝はひどく不安になった。
自分は何か悪い事を言ったのだろうか。
救いを求めるような気持ちでランベルトを見るが、ランベルトも上司の思考を遮るわけにはいかないらしい。
かるく肩をすくめるのみだ。
そのまま二十秒ほども無言の時が流れた。
ヴァレリアはもとの穏やかな表情に戻って口を開く。
「ユウキさん」
「は、はい!」
露骨に緊張している勇輝の態度に、ヴァレリアは苦笑いした。
「まあまあそう身構えないで下さい。別にあなたに危害を加えるつもりはないのですから」
「はいっ!」
はいとは言ってみたものの、今は人生の一大事である。
勇輝は笑おうとしたが、顔を引きつらせる事しかできなかった。
そのいびつな笑顔にヴァレリアは苦笑を隠しきれないようであったが、あえてそこには触れずに会話を続けた。
「率直に申し上げますと、わたくしにもあなたの身に何が起こったのかは分かりかねます。判断材料があまりに少なすぎるのですよ」
「そうですか」
勇輝は少なからず落胆してしまう。
「そう気落ちなさらないで下さい。もう少し情報を集めれば何か分かるかもしれません」
ヴァレリアは優しくそうさとすと、姿勢を正して勇輝に提案した。
「いかがでしょう、行く当ても無いのでしたらわたくしの屋敷にしばらく滞在して、元の姿に戻る手立てとあなたの国に帰る方法を一緒に探してみませんか?」
「え、良いんですか?」
今夜から家なき子かと思っていた勇輝にとって、願ってもない申し出だった。
「ええ、その代わりあなたが生活していたニホンという国のお話を色々とわたくしに聞かせてください。わたくし、とても興味がわいてきてしまいました」
「はいはいっ、そんなもんで良いならいくらでもお話ししますよ! よろしくお願いしますヴァレリア様っ!」
「では、決まりですね」
勇輝はヴァレリアが差し出した手を大喜びで握り返した。
エサに飛びつく野良犬のような浅ましい態度に、ランベルトたちはあきれ顔でため息をつくのだった。