差別なき理想郷
激情にかられて飛びだしたのはいつものように相沢勇輝……ではなかった。
「ガアアアッ!!」
勇輝よりも一瞬早く、若い女の子の魔人が牙をむいて聖イグナティウスに飛びかかる。
するどい牙と爪をはやした姿はまさに化物。
しかし怒りと悲しみに満ちた横顔は人間の女の子のものであった。
聖人の顔面めがけて長く鋭い爪がせまる。
しかし当然というかなんというか。
イグナティウスの前には目に見えない障壁が存在した。
爪の一撃は障壁に防がれ、女の子は逆にはじき飛ばされる。
「ギャウッ!」
「相手をまちがえてはいかん。
その力は他で使え」
はじき飛び壁にたたきつけられた女の子にむかって、淡々と話しかけるイグナティウス。
友人を想う乙女の激情は、聖人の精神をみだす程度の効果すら与えることができなかった。
「あぅあ~? んぶぷう~?」
静かになってしまった室内。
心だけ赤ちゃんになってしまった魔人少女の声だけがこだまする。
静寂を破ったのはやはり、この事態をまねいたイグナティウスであった。
「我はかつて民衆に自由を求められ、その願いをかなえた。
しかし自由を得た民衆はつまらぬことで憎しみあい、ささやかなものを奪いあうことしかせぬ。
さらには周囲にも
『強くなれ、奪う側になれ、お前たちが不幸なのは弱くて愚かだからだ』
などとまことしやかに吹聴し、自己正当化する輩がはびこる有様。
事ここに至って、人類に自由など必要ないことを我は悟った。
人類は正しく管理されるべきなのである。
その準備段階として、このように『漂白』し無垢になる必要がある。
邪念を排除したのちに、正しき知恵を学ばせるのだ」
無垢とは垢が無い状態、つまり汚れなき状態を意味する。
「……この女の子を、もとに戻す方法は?」
勇輝の問いに、イグナティウスは自分勝手な講釈で返す。
「戻す必要はない。
これからこの者は新しい時代を説明するための手本となるのだ。
それがこの者がはたすべき役割なのだ」
「そんな事ァ聞いてねえッ!!」
斬りつけるような苛烈さで怒気をたたきつける勇輝。
「戻せるのか戻せねえのかって聞いてんだッ!!」
紅い瞳が烈火のように燃えている。
しかしイグナティウスはゆるがない。
「戻せぬ。この者の魂は完全なる無垢にもどった」
「この、イカレ野郎が!」
イグナティウスの足元が突然動き出し、床石が彼を挟みこもうとした。
勇輝の得意技パックンフロアー!
バチバチバチッ!
だがこれも先ほどと同じく障壁にふせがれてしまう。
「テメエは人間一人の人生ブッ壊したって自覚ねえのかよ!
お前のどこが聖人だ!」
「表面だけにとらわれるなエウフェーミアの子よ。
この者は行くも地獄、行かぬも地獄の迷宮をさまよっていた。
我はこの者を現世の鎖から解き放ち、新たな役目をあたえることで救済したのだ」
「なにッ」
「アー」
女の子の声が聞こえる。
彼女は仲間たちに抱き起こされ、笑顔をうかべていた。
大きな赤ちゃんとなってしまった仲間を見て、魔人たちはひどく困惑している。
「あの者には魔力がほとんど無かった。
にもかかわらず魔人化の儀式を生きのびてしまったがゆえに、最弱最低の魔人として生きる道しかなかったのだ。
あの者は日々苦しみあえいでいた。
実を結ばぬ努力をつづけていた。
これも人が自由をもとめた弊害である」
「な、なにが言いてえんだ」
あまりにもイグナティウスの表情や発言がゆるぎないので、勇輝のほうがかえって動揺してしまう。
まるで巨大な岩を押しているかのようにビクともしない。
数百年の時を重ねて培れた哲学の前に、わずか15歳の勇輝は翻弄されていた。
「自由を与えられた人間は自由に欲しいものを求める。
求めるが、欲しいだけ手に入れられるのは特別すぐれた者だけだ」
イグナティウスは右手の指を一本たて、白髪妖眼のグレーゲルを指さした。
ここにいる魔人たちの中で、見るからに彼だけ飛びぬけて完成度が高い。
「ほとんどすべての者はわずかしか手に入れることができず、頂点とおのれを見比べて悲しみを抱くことになる。
我はもっとも悲しい者を悲しみの原因から解放したのだ。
もはやあの者は能力の差異などで苦しむことはない。
ただ人として生きるのみ。
それで良いのだ。
これが我の作る理想郷、その第一歩だ。
力がなくともよい。
知恵がたらずともよい。
その他なにが不足していようとかまわぬ。
我が責任をもって管理する理想郷には、優劣による差別など存在せぬ」





