ふるえる小鳥
『ユーリよ、カリスの分けられた魂よ、これからは汝が世界の王となるのだ』
聖イグナティウスを名乗る声の主は、あまりに予想をこえる命令をしてきた。
「わ、私が?」
『然り』
「し、しかし私には兄がいます。
王には兄がなるはずでは」
『エンリーケでは駄目だ。
あの者は欲深く、公に奉仕しようという性根がない』
「…………」
双子の妹としては、なんとも答えようがない。
同意したくなる気持ちもあるが。
『これからはユーリ、お前が王となって地上を導くのだ。
エンリーケには入れ替わりにお前の補佐を命じる』
「そ、それは! 兄が納得するはずありません!」
あの傲慢な兄がそんな命令にしたがうとは。
しかし超越者の声は、凡人のいやしい心など理解できない様子だった。
『世界を統べるものの玉座はふさわしき者にのみ、あたえられる』
兄・エンリーケはふさわしくないから降ろすと。
そして新しくあたえられたユーリも、もっとふさわしい者があらわれた時には降ろされるのだと。
イグナティウスの言葉にそこまでの意味はなかったかもしれない。
だが彼の思想がそういうものであることは明白だ。
ユーリはまるで石像かなにかと会話しているような気分を味わわされた。
この聖人の言うことはあまりに合理的だ。合理的すぎて人間味がなさすぎる。
こんなやり方で人々がついてくるはずがない。
人には欲がある。見栄がある。不安がある。他にももっと色々とある。
この聖人にはそれらが理解できないのだ。
彼がいうところの「公」の精神ばかりが強い。
公とはつまり《世のため人のため》の精神である。
それは素晴らしいことかもしれないが、いくらなんでも私情というものに無頓着すぎる。
はるかな昔、三人目の聖人になるはずだったカリスはそれで殺されたというのに。
このイグナティウスという人物は、悠久の時の流れを体験しても、まるで変わっていない……!
うろたえるユーリに、さらなる衝撃の言葉が襲いかかる。
『すでに他の者たちにも告げてある。
部屋から出よ。
すべての者が汝を待っている』
「なっ!?」
すでに兄にも知られている!?
それではどうにか取り繕うような真似もできないではないか!
ユーリの心はパニックを起こした。
大嵐の海に浮かぶ小舟、その中でふるえる小鳥の心境だ。
もう自分でどうこうできるような状況ではない。
神に祈ろうにも、その神に相当するお方がこの状況を作ったのだ。
ガチャッ! バン!!
その時ユーリのうしろで大音がした。
部屋のドアが乱暴に開けはなたれたのだ。
そこには兄、エンリーケが怒りの形相で立っていた。
「あ、兄上」
「ユーリ、この売女め!」
エンリーケはおどろくユーリの首につかみかかった。
「どんな手を使った、ええ?
どんな手を使って取り入ったんだこの淫売め!」
「わ、わたし、は、なに、も……」
「嘘をつけ!!」
エンリーケの眼は血走り、正気とは思えない顔つきになっていた。
ああそうだろう。
この兄にあんなことを告げたら、こうなるに決まっている。
受け入れるわけがない。
それが兄だ。
それが人間だ。
「殺してやる……!」
首をつかむ両手にさらなる力がこもった。
ユーリは死を覚悟する。
しかしその時はおとずれなかった。
突然、エンリーケの身体がガクン! とふるえた。
「…………!」
首をしめていた力がうしなわれ、ユーリは解放される。
エンリーケは白眼をむき、口から泡をふいて昏倒した。
「ゲホッ、ゲホゲホッ!!」
はげしく咳き込み、どうにか呼吸を整えようとするユーリ。
死んだのかと思ったが、兄は生きていた。気をうしなっただけだ。
「イグナティウス、様……」
自分は守られたのだと感じた。
しかしそもそもの原因はイグナティウスにあった。
「一体、私は……」
自分の運命はどうなってしまうのだろう。
その答えはだれにも分からないものだ。
ユーリはただ茫然と、倒れたままの兄を見ていることしかできなかった。
第五章 完





