聖人イグナティウスの歴史
エウフェーミアの恩師、賢者イグナティウスはまさに聖人と呼ぶにふさわしい人物であった。
高潔、誠実、清貧、慈愛。
人間としてまさに模範的な人物像をしており、人並はずれた知恵と魔力で世界の平和を支えつづけたのだ。
やがて彼の力は人の領域をこえ、不滅の超越者となった。
イグナティウスが現在何歳になるのか、弟子であり同じく超越者となったエウフェーミアにすらわからない。
彼女が生まれた時、すでに彼は完成された存在であった。
エウフェーミアにとって、イグナティウスは師であり養父であった。
赤い眼を持つ非凡な少女が生まれることを魔法で予知していたイグナティウスは、彼女が生まれる前から実の両親と話をつけ、誕生した瞬間から聖女として育てたのだ。
それは普通の人間の価値観からすれば悲劇的なことだったかもしれない。
しかしエウフェーミアが聖女となることによって、彼女が生まれてからの数百年間、何億何十億という人々の命が守られたこともまた事実だった。
イグナティウスは世界の西を。
エウフェーミアは世界の東をそれぞれ守り、同時に導いていた。
二人の超越者にあたたかく支えられ、世界はもっとも栄えた時代をむかえる。
「理想的なハッピーエンドじゃん」
勇輝がシンプルな感想をのべると、エウフェーミアは浮かない顔で肯定した。
「そうね。あの時が人類の全盛期だった。
悪魔や魔王もほとんど出なかったし。
なにより笑顔がたくさんある時代だった」
だった。とエウフェーミアは過去形で語る。
「……残念なことはね、三人目になれるかもしれない子をお師匠様が見つけてからだったのよ」
「へえ」
ピンとこないなあ、という顔で勇輝は聞いていた。
優秀な人材が増えるのはとても良いことだろうに。
「お師匠様は新しく生まれた子に直接地上を守らせようとお考えになったの。
世界の外から見守るっていうやり方では、小さなところまで気配りがきかなかったからね。
それで世界各国の国王に『この子を世界の王とする。皆の者はよく従うように』とお命じになったの」
「え”っ!?」
つい変な声がでた。
「そ、そりゃ無理じゃね?
いうこと聞いてくれたのそれ?」
エウフェーミアは気まずそうに目線をそらした。
「……聞いてくれなかった。
表向きは従ってくれたけど、裏ではものすごく不満に思ったようなの」
「そりゃそうだろ……」
人間は群れで生きる動物だ。
そして所属する群れの上位でありたいと欲する本能をもつ動物だ。
いきなり「お前らの上にワンランク上の支配者を作るねー」なんて言ったところで、素直に聞いてくれるわけがない。
「カリスっていう男の子だったわ。
とても真面目で、子供とは思えないような大人っぽい雰囲気の子だった」
ふうん、と鼻をならしながら勇輝はカリスマという言葉を連想した。
「カリスはとっても一生懸命世界のために努力をしたわ。
彼につき従う人たちはみんな強い力と大きな幸せを手にいれた。
そういう人たちは世界中にどんどん増えていった。
だけど……」
エウフェーミアは言葉につまってしまう。
なぜつまるのか、勇輝はとっくにわかっていた。
そんな人間、地球の歴史には数えきれないほどいたから。
「殺されちゃったんだね。偉い人たちに」
エウフェーミアは力なくうなずいた。
出る杭は打たれる。
権力者というものは優秀すぎる存在を恐れ、殺意をいだくものなのだ。
「お師匠様はそれはもうお怒りになったわ。
人間たちのためにしたことなのに、他でもない人間たちに裏切られたの」
……やり方が悪い。
勇輝はハッキリそう思ったが、口には出せなかった。
「人間たちは支配よりも自由が欲しいとお師匠様に言ったわ。
だから私たちは地上に干渉するのを控えることにした。
そうしたら人間たちは同じ人間同士で争いはじめたのよ。
殺しあい、憎しみあうようになって、悪魔があふれる世の中になってしまった……」
なんとも後味の悪い話であった。





