217話 憤怒
己を見下ろす鋭い双眼。
死が脳裏を掠めた時、ふと、いつかの台詞を思い出した。
『もし自分ではどうにも出来ない事態に陥ったら俺の名前を呼んで下さい。必ず駆け付けますから』
思考より先に手が動く。
右手のナイフを逆手に持ち、加速しながら一歩踏み込み狼の前足を撫で斬るように刃をはしらせる。
前足を上げるだけで容易く避けた狼はそのまま薙ぎ払うように前足を振るう。
「加速ッ」
僅かに溜めを作り、再加速しながら後方に飛ぶ。
前足の攻撃を完璧に避けたつもりだったが、爪が掠ったようで服の前面が切れた。
「真鈴ちゃんは周囲の敵をっ!」
視線を向けずそれだけを告げ、敵を注視し続ける。
初速が最も遅いとはいえ、回避に加え反撃までできる余裕。
(この頃はこんなのばかりで嫌になるっすね・・・・・・)
強い。
この間討伐した【鎌鼬】より遥かに。
けれど、ここで立ち止まる訳にはいかないのだ。
「手を貸して欲しいっす、天照大御神」
(勿論です。敵を切り裂く刃と、加速に耐えうる肉体強化を与えましょう)
両手のナイフの刀身が赤く染まり、陽炎のように熱気が揺らぐ。
体の調子もおかしいぐらいに整っている。私の最高速度でも耐えられるというのなら相当な強化だろう。
敵の瞳から侮りが薄れた。
(鈴奈、神狼フェンリルの首を狩りなさい)
「了解っす」
――加速
狼の周囲を疾走し速度を上げていく。
私の動きが鬱陶しいというように目を細めた狼の四肢に力が入ったのを感じた。
眼前に凶悪な顎があった。
「ッ!」
体を捻り回避しながら返す刃でナイフを狼の目を狙って突き出す。
顔を動かした狼の牙に防がれ、舌打ちしながら足が止まらぬよう疾走する。
「堅い牙っすね」
(フェンリルは最高神を噛み殺した過去があります。決してあの牙に触れないように)
「聞きたくない情報だったっすっ!」
とはいえ正面に回らないようにするのも難しい。
狼の身体能力が高過ぎるのだ。脳内処理を加速させてどうにか動きは追えているが、どうやら狼も私の動きを視認できているらしい。私の動きに合わせて瞳が動いているのが分かる。
(この程度の速度じゃ駄目っすか)
疾走しながら強く踏み込み、再加速。
一瞬狼の瞳が止まり私の姿を見失った。
「百花繚乱」
狼の下、体勢を低くしナイフを逆手に潜る。
遅れて狼の視線が下方に向いた時、私の姿は既に背後にあった。
狼の体から血が飛び散った。
攻撃を与えはしたが、手に伝わった感触に眉を寄せる。
どうやら牙だけでなく肉体も相当に強固であるらしい。
「これ以上の強化は?」
(鈴奈の親和性ではそれが限界です。手数で対処しましょう)
手数ね。あれ相手にそう何度も上手くいくとは思えないけれど。
狼は己の傷に触れてじっと見つめている。
傍から見れば隙だらけに見える姿。
「・・・・・・っ」
狼が笑ったように見えた。
『面白い』
体が一気に冷める。
足が沼に捕らわれたように錯覚しながら、反射に近い感覚で強引に加速した。
刹那、私が立っていた地面が裂けた。
腕を振るった体勢でいる狼を見ればなにをしたかは分かる。問題は威力と攻撃速度だ。
暗い場所とはいえ、地面の裂け目の深さが相当なものであると察した。
『その速度、どこまで上がる?』
狼の毛が揺らぎ、肉体からオーラのようなものが可視化できるほどに溢れる。
いつか見た柳君の闘気に近いように見える。
(鈴奈! 来ますよッ!)
踏み込みで地面を粉砕し、狼が迫る。
巨大な体躯の躍動、オーラを纏った一振りは否が応でも死を連想させる。
「ああ・・・・・・」
思わず感情が漏れる。
「良かった」
攻撃をナイフで受け、逸らす。
空をはしる風が頬を僅かにきり血が滴る。
これだけの強敵を相手にしている現状に笑みを浮かべる。
それはつまり、柳君に掛ったであろう負担を引き受けられているという事だから。いつも彼はどれだけ困難なことでも自分を削ってでも解決してしまう。
「ほんと、誰かさんは頼ることが下手みたいっすね」
『俺を頼ってください』
彼は言う、屈託のない笑みで。
『安心してください。俺は最強ですからね! どんな困難であろうと物語のヒーローみたいに解決してみせますよ!』
彼は言う、自身に満ちた瞳を向けて。
私を守り、妹を守り、全員を守ってきた姿は人をどれだけ安心させてきただろう。
そんな彼が、【テュポーン】が起こした大厄災の情報を見て、密かに拳を強く握った瞬間を見た。
夢から目が覚めた気分だった。
自分より年下の子で、その背中にどれだけの重圧が掛かっているのだろうと考えれば手が震えた。
そして徐々に、一見すれば気付かない些細な変化ではあるけれど、彼は他者と身内とで境界を引きはじめたように感じる。戦うたびになにか重要なものを落し続けているように見えた。今回の件にしても、空間に入った時に怪物の存在が確認できれば以前なら取り敢えず殲滅していたのではと思う。
『もし自分ではどうにも出来ない事態に陥ったら俺の名前を呼んで下さい。必ず駆け付けますから』
その言葉に救われ、本当に感謝している。
けれど、君はどうなんだろう。
誰かに助けを求めた事はある?
辛いときはちゃんと言葉にしてる?
自分は大丈夫だなんて思ってない?
私の目には一人で全部を背負っているようにしか見えない。
人には助けを求めるように言っておきながら、自分がそうしていないのなら、
「絶対に言ってやんないッ!」
感情を乗せてナイフを振るう。
ついに自身の出せる最高速度を更新した。
赤熱したナイフの軌跡が暗い空間を明るく照らす。
『これ程とはッ』
愉悦に口元を曲げながら、私に迫る速度で確殺の攻撃を放ち続ける狼。
その体に無数の傷を伴いながら全く勢いは衰えない。
(決めるッ)
速度が勝っているとはいえ、このままでは先に自分の体力が尽きる。
ナイフを持つ手に力を入れ、己の出せる最速の技を選択する。
「三千世界ッ」
空間に刻まれた無数の斬撃。
狼は衝撃で吹き飛び、私は地面に滑り込むように着地する。
「くッ」
痛みに声が漏れる。
左足が骨折した。技の合間で狼が反応し反撃をしてきたため、体勢的に足で吹き飛ばさざるを得なかった。
(だけど、手ごたえはあった。体中を斬ったし、確実に内臓は破壊したはず)
「回復を――」
凶爪。
砂ぼこりを纏いながら、片目と体中から血を流した狼が眼前にいた。血走った眼は私の姿のみを映している。
脳の加速を僅かに解いたことで反応ができなかった。
死が過る中、
極光が通り過ぎた。
鈍い音を轟かせながら放たれたそれは、狼の片腕を吹き飛ばし来たる死を強引に書き換えた。
「やっと私から目を離した」
遠くで薄っすらと聞こえた真鈴ちゃんの声に驚きながらも、この機会を逃さぬようナイフを突き出さんとする。
しかし、前に出そうとした手は冷たいなにかによって阻まれた。
驚き後ろを振り返れば、紐と鉄鎖がそれぞれ私の足と手首を拘束して地面に縫い付けていた。
――ここまで抗うとは、興が削がれた。せめてその死に様で溜飲を下げよう。
また、あの声が聞こえた。
(鈴奈!)
「鈴奈さんッ!」
酷く焦った二人の声にはっとして狼に視線を戻す。
巨大な顎が片手を伸ばせば届く位置に見え、なんとか回避しようと鎖を引っ張るもびくともしない。せいぜい体を折れていない右の足に傾けるのが限界だった。
鋭い感覚が肌を貫き、次いで体が浮遊感を覚えた。
どさりと、受け身もとれずに地面に落下する。
立とうとして、なにかがおかしい事に気付く。ふと視線を向け。
「・・・・・・なるほど」
左半身が半ばから消えていた。
夥しいまでの血が流れているのが見える。
まだ息があるのは女神の力か、私の意地か。
遠くで真鈴ちゃんの声が聞こえる。逃げてと言いたいが、大声を出せるだけの力が入らない。
『戦いに死ぬ覚悟で挑まないで下さい。どうせなら生き残る覚悟を持って戦って下さい』
死ぬつもりは毛頭なかったんだけどな・・・・・・
右手を空に伸ばす。
少し寂しくて、誰かに握って貰いたかったのかもしれない。
「・・・・・・ごめ・・・・・・ん、ね」
体の力が抜けて、瞳に映る光景が徐々に消えていった。
◇
「鈴奈、さん・・・・・・」
近付かずとも分かる死の姿に真鈴は閉口する。
その視線は神狼に向けられ、怒りに震える手で矢をつがえる。
「殺す」
(逃げなさい! あなた一人ではフェンリルには敵いません!)
「ふざけるなッ! 鈴奈さんを殺されておめおめと逃げ帰れるはずがない!」
神狼は一瞬真鈴に視線を向けた後、興味を無くしたように鈴奈に向き直る。
まるで脅威として認識していない様子に、はがみしながら矢を放とうとして、鈴奈の傍にもう一つ影があることに気付く。
神狼の隣、俯き陰で表情は見えないが、人が鈴奈を見下ろす形で立っていた。
『ッ?!』
まるでなかった気配。
乱入者の存在に危険を察知した神狼が一度距離を取ろうとして、己の体が動かない事に気付く。
よくよく見れば、神狼の体には赤い糸が巻き付き身動きをとれないようにしていた。
「位階上昇――起きろ、戦神」
静かに、乱入者が言う。
途端、闘気が荒れ狂い、白に変わった髪が煽られて表情が露わになった。
「【憤怒】」
虚無。
まるで色がない瞳が神狼を射抜く。
大罪能力を発動させて、能力を一コンマ五倍にした彼は、
――三十乗
その一撃に全てを乗せた。
『そうか――』
神狼の続く言葉を許さず、憤怒の一撃が全てを消す。
反動でぐちゃぐちゃとなった腕を気にする様子もなく、跡形もなく消えた神狼のいた場所を虫けらのように見下ろした後、彼――柳隼人は地面に腰を下ろし無事な手で鈴奈の手をとった。
「・・・・・・服部さん」
ちなみに、1.5の30乗を求めると・・・・・・
約191751というぶっ壊れ数値になります。





