1-6
リリーの病状を診た医師は、渋い顔をして年上の使用人たちをたしなめた。
「……ただの過労じゃよ。休めば治る。じゃが、いくら使用人だからって、こんな子どもを働かせすぎるでない」
アモルは壁にもたれてその様子を見ていた。
空いていた個室のベッドで眠っているリリーの顔色は悪く、目の下には隈が滲んでいる。
一通りの看病が終わって使用人たちが仕事に戻っていく。
アモルは帰り支度をしていた医師を呼び止めた。
「そいつが魔法を暴走させたんだ。……で、倒れた」
医師は真っ白な片眉を吊り上げた。
代々、魔法使いたちを診てきた医師だったけれど、アモルが告げた内容には衝撃を受けた。
「木札に触れたら魔法が暴発した、じゃと? 普通はそんなことにはならんのじゃが……」
アモルも硬い顔で頷いた。
元々、部屋に入るなと言ったのは、貴重な呪符や魔術具を壊されたくなかったからだ。だが、これは……。
これは……──
医師は眠っている子どもをしみじみと見た。
折れてしまうんじゃないかと思うほどか細い手足だった。
だが、栄養の足りない子どもは珍しくもなく、道端の石ころのように、どこにでも転がっている。
「……魔力を使いすぎたんじゃろうな。坊ちゃんが止めてくだすってよかった。下手をしたら木札に魔力を吸い尽くされて命を落としとったかもしれん」
「……」
「まぁ、そう思い詰めるでない。坊ちゃんの方がまいってしまうからの」
(……まいってる? 僕が?)
アモルは変な顔をした。
ただ末恐ろしくなっただけだ。
何の教養もなく、修行もしていない小間使いの少女が、魔法を使った挙げ句に部屋を焼け焦がすほどの魔力を暴走させた……。
医師が帰ってからも、アモルは一人、考えに沈んだ。
リリーが倒れた後──
アモルは大事な呪符や魔導書をダメにしたことで、家族からこっぴどく怒られた。
アモルの方も、リリーがやったのだと言わなかった。
理不尽で腹が立ったけれど、リリーがやったのだとばれる方がややこしいと思ったから、黙っていた。
家族には、リリーが魔法を使ったことを言っていない。……言わない方がいい気がした。
「……おまえのせいだぞ」
腹いせに、起きないリリーの頬をむにっとつまんだ……柔らかい。試しにもう片方の頬もつまんでみた。そのままぐにぐにと弄んだ。
「……間抜け顔」
仔猫といい少女といい、つくづくおかしな拾い物をしたと思った。
拾ったのは気まぐれだった。
玄関先で懇願していた少女が妙に必死だったから……。
それなのに、その日から、アモルの日常は変わった。
家に帰ればちょこまか周りをうろつく少女ができ、それもひょんなことから、一匹増えた。
見ているアモルの方もイライラしたり、時々は微笑ましい気持ちになったりした。
そんな自分自身の変化が、一番新鮮だった。
色彩のなかった平淡な毎日に少しずつ彩りが加わっていくような気がした。
「……早く起きろよ。おまえが静かなのも調子狂うから」
アモルはベッドの端っこに頬杖を突いて、そのままうつらうつらし始めた。
昨日は読み物をしたまま徹夜してしまって、きちんと寝ていない……。
☆☆
窓から夜明けの光が差し込んでリリーは目を覚ました。
なんだか妙に記憶が飛んでいる。
マーガレットから頼まれて庭にいたドニーに食事を届けて、それから拭き掃除をしていたような……。
(……?)
どうして知らないベッドで寝ているのだろう。
頭がやけに重くて、ぼーっとした。
まるで何日も飲まず食わずでいた後みたいだった。
最後に食事を摂ったのはいつだったっけ。
屋敷に来てから、きちんと食べていた気がするのだけど……。
「……うわっ? え? なんで?」
枕元でなぜかアモルが寝ているのを見つけてぎょっとした。
椅子に座ったままの体勢で、上半身だけ突っ伏している。
前にもこんな風に寝ていて、上掛けを掛けてあげた気がする……と思っていたら、意識をなくす前の記憶が甦ってきた。
アモルの部屋に入って魔法が暴発したこと、巻物や木札に飛び散って燃え焦がした火の粉とぶちまかれた木桶の汚水、最後に見たアモルの怒った顔……。
(おおおおら、ととと、とんでもないことを……!)
「……んん……」
眠っていたアモルが身体を起こす。
リリーの肩がビクンと跳ねた。
さっき大声を出したことを後悔した。
もう少し寝ていてくれてもよかったのに……。
そんなリリーの懇願もむなしく、アモルの視線はまっすぐリリーを射抜いた。恐ろしく不機嫌な顔で。
「……起きたか。おまえ、身体の具合は?」
「かかか、身体?」
「吐き気はないか。目眩は?」
「いえ、あのあのあの!」
謝らなきゃ! 今すぐに謝らないと! と思う思考は空回りして、こんなときに限って舌もろくに回らない。
アモルが眉根を寄せると、リリーは更にパニックに陥った。
「……ちょっとは落ち着け。取って食ったりしないから。……言いたいことはいっぱいあるけど。説教は後だ、後。ほら、これ飲め」
「ぐぇぇ……っ?!」
看病に慣れないアモルに水差しを喉の奥まで突っ込まれ、リリーは目を白黒させて、涙目で咳き込むはめになった。
地味な嫌がらせなんじゃないかと思えてくる。
本人は至極真っ当に本気なのが、余計にタチが悪い。
「ぜー……はー……ぜー……」
……死ぬかと思った。このままベッドで溺れ死ぬのかと……。
「ほら、こっちが医者からもらった薬。言っとくけど、この程度で済んで儲けものなんだからな。僕が止めてなかったら、今頃おまえ……」
「……で……」
「ん?」
「……追い出さ……ないで」
消え入りそうな声で、リリーは言った。
上掛けを握りしめた拳に力を入れすぎて白くなっている。
アモルは薬を用意していた手を止めた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。……ごめんなさい! 壊しちゃった物は一生かかっても弁償します。どんな罰も受けるから……お願いだから、おらを追い出さないで……!」
──『追い出さないで』。
リリーは懇願しながら少年にすがりついた。
俯いた顔の下で、アモルがどんな表情をしているのかも気付かない。……どんなに狂おしいほど悲しい顔をしているのかも……。
「……っ! バカにするな!!」
アモルはリリーがすがった手を払った。
すみれ色の瞳が激しい怒りに燃えている。
リリーは呆気にとられた。
「……アモル……様?」
「こんなことで見捨てたりしない! 僕を、おまえを捨てた家族なんかと一緒にするな!」
「──な……っ?!」
リリーの頭に血が上った。
気が付けば、さっきまで懇願していたことも、相手が雇い主であることも忘れて反論した。
「バッ……バカにしてるのはそっちの方よ! おらは家族に捨てられてなんかいない!」
「じゃあ、なんでおまえ、うちに来たんだよ?! 親に見捨てられたからだろ?!」
「違う! お父ちゃんもお母ちゃんもおらを愛してくれたもの! 家族が生きてくためには仕方なかった!」
「その家族は今頃、おまえを売った金でのうのうと生きてんじゃねーか! なんでおまえだけ、全っ然関係ない他人の家を追い出されないようにビクビクしてんだよ! おかしいと思わねーの?!」
「違……っ!」
「おまえがよそでどんなにみじめに苦労しててもおかまいなしな家族なんか見捨てたのとおんなじだ!!」
「違う! 違う! 違う……!」
リリーはアモルの顔面に枕を投げ付けた。
布の裂け目から真っ白な羽根が飛び散る中で、お互いに相手を睨みつけた。
リリーの頬に透明な涙が一筋、伝って落ちた。
「あんたみたいに恵まれたひとには一生わかんない!!」
リリーは足元がふらつくのもかまわず、棚や机に何度もぶつかりながら部屋から走り去った。
どうやって使用人部屋まで帰ったかは覚えていない。
部屋は無人で、ベッドの上に包帯の取れた仔猫がいた。
リリーは仔猫をかき抱いて泣いた。
屋敷に来てから我慢していた悲しみがいっぺんに押し寄せてくるようだった。
「帰りたい! もう帰りたいよ! お父ちゃん! お母ちゃん! みんなぁ……!」
どんなに貧しくても、ひもじくても、あそこがリリーの生まれ育った場所なのだった……。