1-5
大型の織機の腕がカタリ、コトリと静かに上下する合間、マーガレットの鼻歌が穏やかに流れていく。
傍らで横糸を通すのを手伝っていたリリーも嬉しくなるぐらい、軽やかな音色。
マーガレットが織っているのは、一点の染みもない、新雪のように真っ白な布地だった。
屋敷に来るまで生まれてこのかた、生成りの麻の服しか知らなかったリリーは、まるで天使の衣装みたいだと思った。
思わず、ほぅ、とため息をついた。
「お祭り、リリーちゃんは行ったことある? 凄いんだから。踊り子たちの綺麗な踊りが見れたり、楽士隊の珍しい演奏が聞けたり。見たらきっとびっくりするわよ」
どうやらマーガレットが織っているのはその祭りで使う衣装らしい。
踊り子が着るのか、もっと他の出し物で使うのか……想像するだけで胸が弾むようだった。
「それって、おらたちも行けるの?」
「もちろん。祭りのときは私たち使用人も暇がもらえるの。祭りの後は忙しくなるからね。私たちにできるのって、こんなことぐらいだしさ……」
「……? マーガレット……?」
なんとなく、マーガレットの表情に影が射した気がした。
だが、リリーがそれを訊ねる早く、台所の方から声をかけられて、マーガレットは弾かれたように立ち上がった。
「マーガレット! ドニーにご飯持ってったかい?」
「やだ、いけない! 私ったらすっかり忘れてた。……リリーちゃん、台所に置いてある藤籠、ドニーに届けてくれない? 多分、お庭のどこかにいるはずだから」
「はーい」
ワーグナー家の庭は広く、庭師兼雑用係でもあるドニー青年は外で食事を摂ることも多い。
リリーはまず門のところまでぶらぶらと歩いてみた。
家畜小屋を覗き、裏の林の方までひととおり声をかけて回る。
(……いない。どこ行ったんだろ)
屋敷の周りをぐるりと一周して、作業小屋の裏手でようやく目当ての青年を見つけた。
「こんにちは、ドニー! ご飯持ってきたよ」
「やぁ、おちびさん。元気だね」
「薪割りしてるの? おらも手伝う!」
「えぇっ?! ダメだよ、危ないよ」
「平気へーき」
──とは言ったものの。
(な、何これ。重い……!)
リリーは斧を持ったまま、ふらふらとよろけた。
切り株の上に薪をセットして、あとはそのまま振り下ろせばよかったはずが、てんで明後日の方向に歩いている。
斧を自由自在に振り回すはずが、逆に、斧に振り回されている。
(ドニーが持つとあんなに軽そうなのに……なんで?!)
庭師兼雑用係の青年は心配そうにおろおろしている。
「大丈夫かい、おちびさん」
「平気、へーき……あっ!」
「あ……」
バランスを崩した拍子に、斧が手からすっぽり抜けた。
緩やかにカーブを描きながらすっ飛んでいき、ドニーの短い髪を数本さらって作業小屋の壁に突き刺さった。
……一歩間違えば、ドニーの首を掻き切っていたところ。
二人の間に気まずい沈黙が落ちた。
「ご、ごめんなさい……」
「……。あのさ、手伝わなくていいから」
「………………はい」
これにはリリーも、ぐうの音も出なかった。
藤籠だけ置いて、おとなしく帰ることにした。
ずっと庭仕事をしていたドニーは火照った襟元を緩めた。
太陽が容赦なく照りつける空を見上げている。
「……ふぅ。しかし、暑いな。こう日照りが続くと参るなぁ。このままだと、今年もまたひどい飢饉になるぞ……」
「……え……?」
リリーの顔がさっと強張った。
屋敷の中にいるから忘れていた。
水も食べ物も満足にない暮らし。飢えをしのぐだけの毎日。痩せ細っていくだけの兄弟たち……。
その様子に気付いて、ドニーが慌てて付け足した。
「大丈夫だよ、おちびさん。近々、祭りがあるからな」
「……?」
「ほら、外は暑いだろ。早く屋敷に戻りな」
屋敷に戻るとき、ドニーのぼやきが聞こえてきた。
「……そうだよなぁ。俺たちはまだ恵まれてるよな。魔法使いに仕えてるってだけで飯にありつけるんだから……」
憂いを帯びたその声が、なぜか耳から離れなかった。
☆☆
その昼下がり──
マーガレットから言いつけられた拭き掃除を終えて、リリーはアモルの部屋の前を通りかかった。
固く閉ざされた扉の前に、食事の膳がぽつんと置き去りにされている。
メニューは昨日の夕食だった。
冷めて膜の張ったシチューが手つかずで放り出されている。
アモルはいわゆる研究肌で、たまに寝食を忘れて何日も部屋にこもっている。
中で何をしているかは知らない。
放っておいて気が付くと、食事の膳がカラになっていたりする。かと思えば、手つかずのままダメになってしまうこともあった。
(いくら魔法使い様だからって、食べ物を粗末にするなんて……)
リリーはちょっと腹を立てた。
同時に、悲しくもあった。
毎日、決まった時間に運ばれる食事の膳が、この少年には当たり前なのだと知って。
これがあれば、リリーは家族の元から売られずに済んだ……という思いを首を振って追い出した。
(……でも。もし中でお加減が悪かったりしたらどうしよう。この間もなんだか顔色が悪かった気がするし……)
……だんだん心配になってきた。
最初に釘を刺されて以来、若い主人の部屋に入ったことはないのだけれど……。
(声かけてみようかしら。でも、お邪魔になったらどうしよう……)
リリーはドアの前をうろうろと行ったり来たりした。
部屋の中からは物音ひとつ聞こえない。
「……ア、アモル様ー? いますかー?」
おそるおそるノックした。
返事はない。
リリーはますます心配になった。
中で倒れてたりしたらと思うと気が気ではない。
普段の横柄な態度はともかく、野良仕事を知らない色白の少年は、ほんのたまに、木漏れ日に溶けてしまうんじゃないかと思うぐらい繊細に見えるときがあった。
(……。えい!)
ドアノブを回したら、うっかり開いた。
少しずつ、ゆっくりとドアを開ける。
最初に飛び込んできたのは、羊皮紙と木とインク、それと、何かの塗料の匂い。
壁一面に作り付けられた棚には、おびただしい数の巻物や木札が溢れている。
入りきらない分は床にまで零れ、ベッドの上だけが無事だった。
そして、一番奥にある机に突っ伏した少年が一人。
リリーは足の踏み場に気を付けながら、ゆっくりと部屋に入った。
机に突っ伏したアモルは規則正しく寝息を立てている。
(ね、寝てる……。寝てるだけ?)
つい、確かめた。
気持ちよさそうな寝顔にほっとする。
こうして見ると、リリーと何も変わらない、あどけない少年だった。
ベッドから上掛けを持ってきて肩に掛けた。
起きる気配はない。
(ちゃんとご飯食べないと大きくなれませんよー?)
本人には面と向かって言えないことを胸のうちで呟いて、くすりと笑う。
そうすると、少し気持ちに余裕が出てきた。
リリーはアモルの読んでいた羊皮紙を覗き込んだ。
最近、リリーはマーガレットから読み書きを教えてもらうようになった。
最低限の読み書きができると、色々と便利なのだった。
砂糖と塩の壷を間違える回数が減ったり、お遣いに行ったときに値段を誤魔化されずに済んだり、とか。
いつもはドジなリリーも、読み書きに関しては飲み込みがよくて、教えてくれたマーガレットが舌を巻いたほどだった……のだが。
(……むぅ。読めない)
内容が難しくて眉をしかめた。
アモル様は普段、こんなものを読んでいるのか……。
机の上には、魔術具だという水晶玉や鏡も転がっていた。
それには触らないように注意深く避けながら、リリーは自分にも読める文字を探してきょろきょろと見回していると、棚の片隅に木札を見つけた。
植物のツタが絡まる紋様が描かれていて、装飾が美しいのに惹かれた。
「きぎ、のせ、い、れ、い? いぶき、の、かいな、を……」
木々の精霊に命ずる
息吹の腕を我に伸ばし
永久の祝福を我に授けよ
深緑の揺り籠で我を抱き
実りの喜びを我が身に授けん
読み終えた瞬間、リリーの小さな心臓が、ドクンと鼓動を奏でた。
血の巡りが一気に活性化し、熱い熱となって迸り、両腕を通って木札に流れ込む感覚がした。
「ふぁ……?!」
にわかに火照った両手の中で木札が光を放ち、なんと、ツタの紋様が浮き上がった。
描かれていた植物が木札を飛び出して本当に芽を出し、木札を苗床にして見る見るうちに育ち始めている。
「ええぇっ?! な、何これ! どうなってんの?」
パニックに陥ったリリーをよそに、植物はぐんぐん伸びて、やがて大きな蕾をひとつ、つけた。
深紅に輝く一輪の野バラだった。
(……綺麗……)
リリーは魔法の野バラにそっと手を伸ばした。
リリーの魔力を吸って育った花は蠱惑的な魅力を放って香ってくる。
まるで美しい幻の中にリリーを誘うように……。
だが、花はリリーが触れる傍から炎を宿して燃え上がった。
リリーは悲鳴をあげた。
幻の熱は瞬く間にリリーを呑み込んだ。
心臓から強引にエネルギーを吸い出し、搾り取り、リリーの魔力を貪り尽くそうとする。
身体から力が抜けていく……。
気が付けば、リリーは火の粉に囲まれていた。
炎に包まれた館を、リリーは見ていた。
火の粉はその炎が生み出しているのだった。
館の柱は燃え崩れ、豪奢な装飾はバターのように溶け、見る影もなく無惨な光景に変わっている。
燃え落ちるのを待つばかりの館に、一人の少年がいた。
リリーよりも少し年上で、けれど、世の中のすべてを諦めきったように、炎に包まれる部屋で逃げもせず、静かに立っている。
無感動なその瞳は、綺麗なすみれ色をしていた……。
──バシャリ、という衝撃でリリーは我に返った。
「……あ……? ……あれ?」
さっきまでいた、アモルの部屋だった。
床に蹲って濡れ鼠になったリリーを、アモルが切羽詰まった形相で見据えている。
手にしているのは、さっきまでリリーが使っていた拭き掃除の木桶だった。
火の粉を噴き出した木札もろとも、リリーに水をぶっかけて消火したらしい。
室内はひどい有様だった。
リリーが立っていたところの床は焼け焦げ、飛び火した火の粉が巻物や木札を焼いていた。
その上から拭き掃除で汚れた水を容赦なくぶっかけたせいで、火の粉を逃れて無事だった物までひどい臭いを放っている。
アモルがリリーの手から取り上げて叩き折った木札は、沈黙して床に転がっていた。
「お、おら……」
リリーはようやく自分の失態を悟った。
がたがたと震え出したリリーの胸ぐらを、アモルが引っ掴んだ。
「おまえ……なんで部屋に入った! もう少しで本当に取り返しのつかないことになるとこだったんだぞ?!」
「ご、ごめんなさ……おら、こんなつもりじゃ……!」
「ごめんで済むか! おまえ、自分のしたことわかってんのか……あ、おい!」
懸命に意識を繋ぎ留めながら謝ろうとしたリリーの身体から、今度こそ本当に力が抜けた。
ぐんにゃりと倒れ込んだリリーを支えきれず、アモルも一緒に、水浸しの床に尻餅を突く。
「……っ?! おい、おまえ! リリー、しっかりしろ! ……誰か! 誰か来てくれ!」
アモルの必死の叫びを聞きながら、リリーの意識は水面に投じられた小石のように、闇に深く沈んでいった。