1-4
アモルが最後の野犬を追い払ったとき、リリーは身体を縮こまらせて震えていた。
腕の中にはぐったりとした仔猫がいた。
肩口を無惨にも大きく切り裂かれ、少女の服を赤く染めている。
アモルは仔猫の傷を診た。
息を呑んだ。致命傷なのは明らかだ。
(まだ、息がある……でも──)
それも時間の問題だった。
「助けてくれて……ありがとう、ございました」
「……ああ」
こういうとき、なんて言葉をかければいいのか。
気の利いた台詞ひとつ出てこない。
目のやり場に困った。
「……ひとまず屋敷に戻ろう。まだ野犬が近くをうろついてるかもしれないし」
「……アモル様、一人で戻ってください。おらも後から行きます」
「でも……」
「この子を看取ってから行くから」
仔猫を抱いたリリーは、アモルに背を向けた。
そのまま林の向こうに立ち去ろうとする。
けれど、立ち去る前に少しだけ立ち止まった。
「……迷惑かけて、ごめんなさい。おらは大丈夫だから、どうか、追い出さないで……ください」
アモルは木槌で頭をぶん殴られたような衝撃を受けた……『追い出さないで』?
気が付けば、立ち去ろうとするリリーの腕を力一杯掴んでいた。
頭に血が上っていた。
リリーが痛そうに顔をゆがめるのにも、配慮するつもりなんてなかった。
「そこに座れ。……猫の傷診せろ」
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
リリーは何が何だかわからず、びくつきながら黙って従った。
倒木の上に座り、腕の中の仔猫をアモルに見せた。
アモルは注意深く猫の傷をなぞっていった。
医者の触診のように、丁寧な手つきで。
やがて観念したような深い深いため息をついた。
「そこでじっとしてろ。何が起きても騒ぎ立てるなよ」
「……?」
リリーが不安そうに身じろぎする。
だが、アモルに睨まれてすぐに観念した。
アモルの口から不思議な旋律が流れた。
抑揚豊かに、低く高く、加護を願う言葉の連なりが紡がれる。
懐から木札を取り出すと、仔猫の傍でかざした。
心安まる温かな光が少年の手のひらに集まり、仔猫の傷口が見る見るうちに塞がっていく……。
やがて徐々に光が収まったとき、リリーの腕の中には、傷口の塞がった仔猫が気持ちよさそうに寝息を立てていた。
「……嘘……。あんなに深かった傷が、一瞬で……!」
「傷口を塞いだだけだ。まだ完全に治ったわけじゃない。……誰にも言うなよ」
アモルはふらりと立ち上がった。
何事もなかったかのように立ち去ろうとする少年の背中を、今度はリリーが追いかけた。
「あの……あの! ありがとうございました! 本当に、本当にっ、ありがとう……!」
たった今目にした信じられない力のことで舞い上がっていたリリーは、少年が覚束ない足取りを隠してよろけていることに気付かなかった。
☆☆
アモルは鉛のように重たい身体を引きずって屋敷に戻った。
少しの距離を歩いただけで息が切れ、つい蹲ってしまいたくなるような疲労が襲ってきた。
一度そうしてしまえば、もう立てそうになかった。
壁に手を突きながらよろよろ歩く姿を兄のエヴィンに見つかったときも、アモルはもう隠す気力もなかった。
「アモル……おまえ、魔法を使ったな? 魔力を使えば心臓に負荷がかかることぐらいわかってるだろ?! なんだって一人でそんな無茶をしたんだ! いくら魔法使いとして認められたからって……勝手なことするな!」
アモルは苦い顔をした。
兄の心配はもっともだった。
「……悪かったよ、兄さん。もう勝手に使ったりしない。でも──無茶かどうかは僕が決める」
すみれ色の瞳の中で瞬いた狂気の光に、エヴィンが一瞬、怯んだ。
それもすぐに掻き消え、少年はいつもどおりの淡々とした表情に戻った。
「……今日はもう疲れた。休みたいんだ」
「……」
エヴィンは道を譲った。
疲労困憊の弟を心配しながら、黙って見送ることしかできない。
アモルは自室のベッドに倒れ込んだ。
すぐに抗いがたいほどの睡魔が襲ってきて、泥のように眠った。
……夢は見なかった。
☆☆
次の日、アモルはまだ気怠い身体を騙し騙しベッドから引き剥がした。
窓の外を見ると、太陽が高く昇っていた。
(……くそ。まだ頭がクラクラする……)
まだうまく頭が働かない頭でぼんやりと思った。
お腹がすいたので、陸を歩く亀のようにのそのそ台所に顔を出すと、リリーが興奮した様子で駆けてきた。朝食ではなくて、包帯だらけの猫を突き出してくる。
アモルがたじろぐのにもまるでおかまいなく。
「アモル様、アモル様! 聞いてください。この子がミルクを飲んだんです! ピンクのちっちゃい舌を出してぺろって……!」
「……そりゃあ、飲むだろ。猫なんだから」
「だって、あんなに大怪我してたんですよ? よかったぁ。これも全部アモル様のおかげですね!」
リリーの満面の笑顔を、アモルは初めて見た。
不覚にも一瞬、かわいいと思った自分に愕然とした。
(そういえば同い年の女の子なんだった……)
──だから、何だというのか。
アモルは首を振って否定した。
そんなアモルの様子に気付かず、リリーは一人で勝手に話を進めている。
「ね、アモル様。なんて名前にしたらいいと思います?」
「は? 名前? ……ってか、飼うのか、それ」
ちょっと待てと言いかけたアモルだったが、リリーは猫の名前をあれこれ考えている……聞いちゃいない。
アモルは盛大にため息をついた。
「……名前なんて、そんなん適当でいいだろ」
「じゃあ、アモル様のお名前もらってもいいですか?」
「……勘弁して……」
よりにもよって猫の名前……。
アモルは何かの罰ゲームを受けているような気がしてきた。
昨日ひいたはずの頭痛がぶり返してくる。
思わず呻いてこめかみを押さえた。
「……? アモル様、お加減悪いですか? もしかして熱が……」
心配そうな顔をしたリリーの手が伸びて、アモルの額に触れようとする。
アモルはうろたえた。
置きっぱなしにして冷めたスープ皿をひっくり返したおかげで、真っ赤になった顔を見られずに済んだ。
(調子、狂う……)
リリーがスープ皿を片付けている傍らで、何も知らない仔猫が「にゃあ」と鳴いた。
──それ以来、リリーとアモルはよく仔猫の話をするようになった。
リリーは「仔猫が立った!」「歩いた!」といちいち報告してきて、アモルが適当に相槌を打っても、懲りずに付きまとってくる。
懐いたのが猫なのか人間の少女なのか、アモルはよくわからなくなってきた。
毎日、アモルが帰宅すると、「おかえりなさい!」と駆けてくるのは人間の方。仔猫は陽向や暖炉の傍で気ままに寝そべっている。
けれど、リリーにイライラすることも増えた。
新入りで痩せっぽちなリリーは、家事をやらせてもよくドジをする。
そうすると、震えながら謝って同じことを言うのだ──『追い出さないで』。
そのたびにアモルは胸が焼け付くような気持ちになる。
仔猫が瀕死の傷を負っても、一人で看取るからと、似合わない気丈さで言っていた少女。
よそから来たリリーが、屋敷から一歩、外に出れば、近所の子どもたちにからかわれて虐められていることも知っていた。
アモルは最初に会ったとき以来、リリーが泣くところを見たことがない。
泣けばいいのに、と思った。
まだ年端もいかない子どもが故郷から売られて、家族のもとを離れてよその家にやってきて、平気なはずはないのだ。
悲しいのなら、つらいのなら、泣けばいい。
けれど、リリーはまるで泣いたら追い出されると思っているようだった。助けを求めたら見捨てられると、本気で心配しているのだった。
そんなリリーの姿を見ていると、アモルはわけもなくイラついて仕方がなかった。