1-3
(どどど、どうしよう……アモル様、怒ってたよぅ。おら、アモル様の使用人なのに……うぅ、追い出されたらどうしよう……!)
外の空気を吸おうとして台所の片隅にある勝手口を出たら、ちょうど仔猫が餌をもらいにきていた。
数日前、屋敷に辿り着いた迷い猫である。
薄汚れていたので洗ってやり、今ではすっかり艶やかな漆黒の毛並みを取り戻している。
「ねぇ、猫ちゃん、何か言ってよー」
「にゃあ?」
猫はひとつ鳴いて、また関心をミルクに移した。
随分と熱心にミルクを舐めとっている……猫にまで怪訝な顔をされてしまった。
リリーはため息をついた。
「……薄情者ー。あんただって、おらがミルクをやらなかったら今頃、野垂れ死んでたんだぞー?」
──返事はない。
どこまでわかっているのだろうか。
リリーは口を尖らせたまま、仔猫の毛並みを撫でてやった。
猫は気持ちよさそうに身を任せている。
「……あんたも、おらと同じだね。すっかり居着いちゃって。──ねぇ。もしある日、この家に来てもミルクがもらえなくなったらどうする?」
話がわかったわけでもないだろうが、猫はリリーを慰めるように擦り寄った。
「……冗談だよ。慰めてくれるの、猫ちゃん」
リリーは仔猫を抱きしめた。
親のいないひ弱な仔猫。
こうしてミルクをやっていても、過酷な野外生活で、いつ死んでしまうかもわからない。
けれど、周りの気分次第でいつでも命運が途切れてしまうのは、リリーも同じなのだった。
盛大にため息を吐いたときだった。
風に乗って、くすくすと笑い声が聞こえてきた。
(……?)
振り向いた先に、女がいた。
陽の光に透けてしまうんじゃないかと思うほど白い真珠の肌。
黒い髪は艶やかに長く、女の美貌を際立たせる。
それが、いつもは屋敷の奥にこもりきりのワーグナー夫人──アモルの母親だと気付くと、リリーは慌てて背筋を正した。
遠目に何度か姿を見たけど、こんなに近くで話すのは初めてだ。……ほぼ初対面でえらいところを見られた気がする。
「お、奥様? いつからそこに……?」
仔猫に一人言を言うのをずっと見られていたのだろうか。
生まれて初めて、穴があったら入りたいと本気で思った。
「ご、ごめんなさい。勝手に餌付けして……」
女は小鳥のように小さく首を傾げて、儚く笑った。
「いいのよ。猫は好き?」
「は、はいっ」
「そう……」
かがんで、よしよしと仔猫を撫でた。
仔猫は緊張しているのか、何やら固まっている。
「──アモルは好き?」
「は……えぇ?」
ここでバカ正直に「今、怒られてて凄く怖いです」とは言えない。
(──というか、猫と同列? 猫の流れで息子のこと訊く?)
「えぇっと……あのぅ、怖くないと言えなくもない……こともないような……」
女は激しく言い淀んでいるリリーの赤毛をよしよしと撫でた。
いつの間にか、猫と同列なのはリリーの方。
「え? あの……奥様?」
「綺麗な髪……ふふ、血の色は好きよ。ぞくぞくする……うふふふふふ」
──素直に喜んでいいのだろうか。
背筋が凍り付くのを感じながら、リリーはぎくしゃくと仔猫を拾い上げた。
「あのぅ、おら、失礼します」
「あらそう、残念……気を付けて。これから『嵐』が来るから……」
(……? こんなに晴れてるのに?)
風の強い青空の下で、女はもはや興味を失ったように、気怠げに手を振った。
☆☆
自室に戻って魔道書を紐解いていたアモルは、ふと筆を置いた。
(さっき、リリーが触ったとき、確かに光った……)
魔力を持つ者にしか反応しないはずの魔術具が。
リリーが触れた瞬間、光を放ったのだった。
魔力の多寡は個人差が大きい。
魔法使いの血筋には生まれつき魔力の強い者が多いが、何も魔法使いの血筋にしか発現しないというわけではない。
(……。あいつにも魔力が……?)
だからといって、魔法の知識も技術もないちっぽけな小間使いが、ある日突然、叡智を駆使した魔法使いに化けるわけでもない。
(…………ダメだ。くそ。全然、集中できない)
脳裏に、謝りながら震えていたリリーの姿がちらちらと浮かんで、勉強にまったく身が入らない。
あの小さな小間使いが来てから、どうにも落ち着かない日々である。
それでも、色々と不可解な頼まれ事をしても、こうまでペースを乱されることはなかったのに。
『──追い出さないで』
リリーの消え入るような声が、どうしてか妙に気になった。
あそこまで切実な願望の響きを聞いたことがなかった。
そういえば、兄のエヴィンに買ってもらおうとして追いすがったときも、そんなことを言っていた気がする。
(……。バカバカしい……)
アモルはついに勉強を諦めた。
自室を出て台所に行き、瓶の水をコップに掬って一息ついた。
アモルの屋敷にはいつも清潔な真水が届けられる。
魔法使いであるが故の特別待遇だった。
おかげでアモルは生まれてこの方、食べ物や水、薪といった生活に必要なものに苦労したことはない。
だが、屋敷を一歩出れば、人買いに売られたリリーのように、その日の生活にも困る子どもは掃いて捨てるほどいるのだった。……そんなことをとりとめもなく考えた。
そのとき、風の音に紛れてか細い悲鳴が聞こえた。
さっき別れたばかりの少女の声だった。
「……っ! あのバカ。今度は何だよ」
アモルはコップが倒れるのもかまわず外に飛び出した。
その頃、リリーは立ち枯れた林の中を必死に駆けていた。
屋敷の裏で仔猫にミルクをやっていたところを野犬に襲われたのだ。
野犬は一匹、また一匹と増え、今では五頭も背後についてきている。
──腕の中には震えている仔猫が一匹。
「嫌! 来ないで! 誰か助けて……きゃあっ!」
リリーはごつごつと隆起した木の根に足を取られてすっ転んだ。
そこへ牙を剥き出しにした野犬たちが襲いかかってくる。
手の中の温もりを庇って目を閉じた。
飢えた野犬たちが飛びかかって、久しぶりの獲物にありつこうとした……刹那。
「ぎゃんっ!」
野犬の一匹が情けなく咆えた。
「ほら、こっちだ! これでも食らってろ!」
「……! アモル様?!」
リリーは目を疑った。
薪の先に火を灯して松明にした少年が野犬に猛然と立ち向かっている。
反撃してくる野犬たちに、次々と松明の一撃を食らわせている。
だが、群れをなした野犬たちは背後からも飛びかかってきた。
「アモル様、危ない!」
リリーはアモルを突き飛ばした。
「リリー?!」
アモルは必死に身体を起こした……間に合わない。
少女は衝撃に備えて歯を食いしばった。
その刹那──
「あっ……猫ちゃん! ダメ……っ!!」
野犬の研ぎ澄まされた爪が皮膚を食い破り、真っ赤な鮮血の花が咲いた。