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「……君がアモル・ワーグナーくんかね。掛けたまえ」
教頭室に呼び出されると、見知らぬ男が応接セットのソファに腰掛けていた。
部屋の主であるはずのフロリンズ教頭は執務机の脇に控えている。
まるで男の方がこの部屋の真の主であるとでもいうように。
「アモル・ワーグナー。こちらは魔法使い協会の……」
緊張した面持ちで紹介しようとしたフロリンズを男が制した。
「堅苦しいのはいい。お忍びでしばらく滞在していてね。ベシルバードと呼びたまえ」
アモルは男をじっと観察した。
白髪混じりの頭髪とあごひげで年齢がよくわからないが、五十がらみに見える。
上等なジャケットを羽織り、ぴんと背筋を伸ばして足を組む姿はどことなく威厳を感じさせた。
「君のことはかねがねよく聞いている。史上最年少で魔法使いになった逸材、とね。いやぁ、我々としても君にはとても期待しているのだよ」
「……ありがとうございます」
「ところで、学院生活はどうかな。魔法使いの君には、学院の学課は少し物足りないのではないかと心配していてね」
「いえ。そんなことは……」
……ついに来たか、と妙に冷めた頭の片隅で思った。
男の対面に座って、アモルはすみれ色の眼を細めた。
食糧難で人々が困窮しているのを知ってから、いつかこの日が来るかもしれないとは思っていた──学院生としてではなく、魔法使いとして招集される日が。
そうなれば、自分は……──
アモルが秘かに拳を固めたときだった。
ベシルバードがコホンとひとつ、咳払いをした。
「……ところで、君、好きな女の子などはいるか?」
「……は?」
「いやいや、隠さなくていい。君ぐらいの年頃だと、好きな子の一人や二人ぐらいいるだろう。かくいう私も、初恋は学院生のときでね。甘酸っぱい恋を経験したものだ」
思いっきり肩すかしを食らって、アモルの視線が宙を泳ぐ。
思わずフロリンズ教頭に目配せするが、諦めているのか、頭痛をこらえるようにこめかみを押さえていた。
室内に、他に誰もいないことを確認しつつ、アモルはなぜかぼそぼそと答えた。
「……まぁ、いますけど」
脳裏に、リリーのことが浮かんだ。
何かを言葉にする前に、ふっと呑み込むようになった少女のことが。
「その子のどんなところが好きかね?」
「……勉強をよくしていて頑張り屋なとことか、子どもとか猫に優しいとことか……」
らしくもなく、ごにょごにょと答えているうちに、ふっと、笑ってほしいという気持ちが湧き上がってきた。
リリーの笑顔が見たい。昔のように、また……。
ベシルバードは何やら、うんうんと頷いている。
眼光も鋭く、あごひげをしごいた。
「ふむ……なるほど。そうか……いいだろう。それでは、君は彼女のためならすべてを懸けられるか? たとえどんな障害が立ち塞がったとしても彼女を守り抜くと誓えるか……!」
その言葉は雷の矢のようにアモルの胸を貫いた。
たとえどんな障害が立ち塞がったとしても。
守り抜く──リリーの笑顔を。
そんなこと、言われなくても決まっている。
ゆっくりとした瞬きの後、アモルの瞳に決然とした意志の光が宿った。
「……当たり前だ。たとえ、どんなことがあっても」
言って、正面にいる男を睨みすえる。
そうして、アモルはぎょっとした。
……ベシルバードの目尻に薄く涙が光っていた。
「そうか……君の覚悟はそれほどまでか……。どんな少年かと思ったが……あの子の眼に狂いはなかったようだ」
わけもわからず再びフロリンズ教頭を見るが、彼女自身、我関せずを貫くことに決めたらしい。部屋の隅で彫像のようにだんまりを決め込んでいる。
ベシルバードは白いハンカチで涙を拭った。
「学生という青春は短い。頑張りたまえ」
「……? はぁ」
それっきり話は打ち切られる。
拍子抜けして、一気に肩の力が抜けた。
つい、本音を漏らした。
「……蝗害の件で呼び出したのかと思ってました」
「君をかね? 学生は勉強が本分だ。少なくとも私は若くて優秀な魔法使いを使い捨てにする気はない」
意外だった。
魔法使い協会は魔法使いの犠牲をいとわないものだと思っていた。
「……だが、私自身の意思と、魔法使い協会の意向は別だ。民のため、その尊い身を捧げるのが魔法使いの定めだ」
「そう取り決めたのは、エルバンス・オードベルトですよね? 初代魔法使い協会長の。魔法使いは民のためのものだって──そう教育するのが、魔法使い協会にとって都合がいいから」
アモルが放った暴言に、控えていたフロリンズ教頭が眉を上げる。何事か言おうとしたのを、ベシルバードが視線で制した。
静かな視線には、先ほどと同じ人物とは思えない威厳が戻っている。
「……なるほど。君は学院の教え以外のこともいろいろと勉強しているようだな。だが、ほどほどにしたまえ。あまり勉強熱心すぎると、いずれ痛い目に遭うぞ」
「それは、魔法使い協会としての言葉ですか」
牽制しているのかと言外に問うたアモルに、ベシルバードは眼をすがめた。
「……いいや。年長者からの個人的な忠告だよ」
苦々しい言葉に、ベシルバードの本心が垣間見えた気がした。
☆☆
いつもどおりのつもりでいて、思いのほか緊張していたらしい。
教頭室を出たアモルは、詰めていた息を一気に吐き出した。
いつの間にか昼休みが終わろうとしている。
(今から屋上に向かってる時間はないよな……教室に戻るか)
食いっぱぐれた腹の虫が鳴いた。
慣れない神経を使ったせいで余計に体力を使った気がする。
今ならなんでも食べられそうだった……おかしな副作用のあるチョコレートとか。
昼休みの終わりを告げる鐘が鳴って、急いで教室に戻ろうとしたときだった。
赤い髪の少女がこの世の終わりみたいに息を切らして廊下に飛び込んできた。
「アモル様……!」
「リリー、どうし……」
もう授業が始まる……と言いかけたアモルは、胸に飛び込んできたリリーを慌てて抱きとめた。
髪の毛のふわりとした匂いに、危うく理性が吹っ飛びそうになるのをかろうじて踏みとどまる。
リリーは、幼い子どものようにアモルの首にかじりついた。
「アモル様に魔法使いの招集がかかるって聞いて、いても立ってもいられなくて、私……!」
「……落ち着け。今回は違ったから。こんなとこ、誰かに見られたら……」
赤くなりながら廊下を見回したが、教室の並びと離れていることもあって、授業が始まった今は閑散としている。
アモルはそろそろとリリーの背中に手を回した。子どもの頃のようにゆっくりと撫でてやる。
「どうしたんだよ……らしくない」
「だって……私、心配で、心配で……」
「心配するな。僕は大丈夫だから」
「アモル様の『心配するな』はアテになりません……」
小刻みに震えているリリーを宥めながら、アモルは内心、無理もないと思った。
五年前の祭りのとき、魔法を使ったアモルは一ヶ月間、昏睡状態で生死の境をさまよったのだ。
当時、幼かったリリーはそれを間近で見ている。
怖がるな、という方が無理だった。
……あのときも、ただ、笑った顔が見たかっただけなのに。
誰も犠牲にならない世界。
誰もが幸せになる世界。
……リリーが願った世界を、見たかった。
リリーの肩を抱く力に、自然と力が籠もった。
「……僕は魔法使いだ。いざとなれば魔法を使うさ……そのために僕は──」
リリーの眼に、今度こそ、こらえきれない涙があふれた。
透明な滴が頬を伝い、とめどなく落ちていく。
「……お願い。置いていかないで……!」
リリーの悲痛な叫びが、アモルの胸を裂いた。
泣かせてばかりだ、と思った。
十歳の頃と何も変わらない。
置いていかないと、約束することすらできない。
──不幸にすることしかできないのか……。
背後の闇に、死んだはずの母の気配を感じた。
それ見たことか、とほくそ笑む女の幻が、白昼夢のように溶けていった。




