5-2
男は数十年ぶりに、木造の校舎に足を踏み入れた。
黄昏時の校舎は生徒の数もまばらで閑散としており、ある種、静謐な空気に満たされている。
磨き込んだ革靴で踏みしめる床の軋みに、卒業してからの歳月を嫌でも感じた。
またこの学び舎に戻ってくることになろうとは。
懐かしさと感慨深さと……ほんの少しのほろ苦さ。
学生だった頃の遠い日々を思い巡らせていると、ふと、一人の生徒に目が留まった。
燃えるような赤い髪の少女だった。
年は十代の半ばほど。美しい白皙の横顔に、均整のとれたほっそりとした手足が制服から覗いている。
誰もいない教室で一人、机の上に教本を開いているが、目の前の勉強ではなく、遠いどこかに想いを馳せているのは明らかだった。
かといって、年頃の少女たちのように恋愛に浮ついているのもなく、居残り授業に嫌々取り組んでいるようにも見えない。
何を考えているのだろう、と興味が湧いた。
最初に声をかけたのは純粋な好奇心からだったと思う。
「こんにちは。綺麗な夕日だね」
声をかけて初めて、少女は男の存在に気付いたらしい。
ゆっくりとひとつ瞬きをすると、淡々と質問した。
「……どちら様でしょうか?」
「この学院の卒業生だよ。いや、突然声をかけてすまない。つい、懐かしくてね。こんな時間の教室に一人ということはフロリンズ女史の居残り授業かい? ……いや、今は教頭になったんだったか」
「いえ。自習をするのに都合がよかったので」
「だろうね。落第生の課題内容じゃないな」
指摘されて慌ててノートを隠すあたり、初々しくて好ましかった。
第五学年の教室にいることからして、かなり優秀な部類なのだろう。
年齢の割に物静かで大人びた受け答えが妙に印象的だった。
「……夕暮れはあまり好きじゃないです。灯りがないと本が読めなくなるから。蝋燭代もバカになりませんし」
「君の家は蝋燭代も仕送りしてくれないの?」
「いえ。でも、必要のない出費は慎むべきです」
「しっかりしてる。この学校の生徒にしてはめずらしい……けど、全面的に賛成だな。近頃、魔法使いの中でも、どうもその辺の現実的な感覚が鈍いやつが多くてね。魔法の力に溺れてしまうのか、そうした庶民的な感覚を忘れてしまうんだ」
ついぼやいた男を、少女は興味深そうに見つめた。
近頃、年のせいか説教じみてきた自分に気付いて男は苦笑した。
自分にもこんな澄んだ瞳をもった時代があった。
「僕も魔法使いの家としては下流の出でね。学院には入れたけど、インク代も蝋燭代もケチって必死に勉強した。こんな窓際で勉強してるなら、同じ部類かと思ってね」
少女は否定も肯定もしなかった。
緋色の瞳でひたと見つめられると、すべてを見透かされそうな気持ちになる。
果たして、今の自分はあの頃と同じ情熱をもっているのかと……。
「けど、せっかくあの夕日と同じ綺麗な髪の色をしてるんだ。君は若いんだし、もう少しロマンを感じてもいいと思うけどね」
「自分の髪も好きじゃありません……昔、血の色だと言った方がいたので」
茶目っ気を出して言った男に対して、まるで心の底からそう思っているかのように少女は言う。
あるいは、本心なのだろう。
まるで呪いだ、と男は思った。
ふむ、とあごひげをしごいて少しだけ考えた。
「なるほど。血の色ね……僕はそう思わないけど。そうだな、豊穣の秋に色づくカエデの葉の色だ」
「……カエデ……?」
「そう。知ってるかい。カエデは天に向かってまっすぐに伸びる良質な木材になる。自分の理想に向かう純粋な意志の力を宿す木だ──今の君のようにね」
少女がはっとしたように顔を上げた。恥じらうように髪を指にからめる。
「……っ」
急に、机の上の教材を片付け始めた。
赤くなった顔を俯けたまま、そそくさと教室を出て行く。
「帰ります。蝋燭も持ってきてないし……さよなら」
「……ああ、気を付けて」
一人取り残される形になった男は、見るともなしに窓の外を眺めた。
校舎の三階にある教室からは、赤く色づき始めたカエデの葉が最後の残照に輝いている。
その教室の入り口に白髪頭を引っ詰めた眼鏡の女教師が現れたのは、赤毛の少女が立ち去ってしばらくのことだ。
「……困ります。うちの生徒を勝手に口説かれては」
「口説いてなんかいないよ。僕は彼女のためを思って……」
「そう言って泣き目を見た生徒たちを何人も見てきましたからね」
「……何十年前の話だよ……」
フロリンズ教頭の苦情を受けて、男はげんなりと天を仰いだ。
お互い、髪は白髪混じりになったが、背筋は伸びてまだ精悍さが残る。
かつては同じ学院で肩を並べた同期だった。
「……それも上議員の貴方がいきなり来るなんて、生徒たちに知れたらどんな騒ぎになるか……」
「お忍びなんだ。内密に頼むよ」
茶目っ気たっぷりに男が言うと、フロリンズ教頭は何も言えなくなる。
学生の頃からこうなのだ。男の無茶を、フロリンズは結局、呑み込むことになる。
せめてもの抵抗に、これ見よがしに嘆息した。
「……まったく。それで、用件は何です?」
魔法使い協会の上議員がわざわざ母校懐かしさに訪れるわけがない。
それだけの実力者だし、権力者だった。
はたして男は得たりと笑んだのだった。
机の上に腰掛けて悠然と脚を組み、決然とした眼差しに意志の光を宿す。
「──次世代の魔法使いの『原石』を探しに」
フロリンズは眼鏡の奥で瞠目した。
この男が乗り出したからには、ただの偵察などではありえない。
アモル・ワーグナーに次ぐ若き魔法使いになりうる人材が現れたということか……。
「──と、まぁ。実はそれだけじゃないのだがね……これを見たまえ」
「……?」
男がもったいぶって取り出したものに、フロリンズは眼鏡の奥で細い眉をひそめた。
家紋を表す封蝋を確かめてから、彼女も中身をあらためる。そして──
予想もしなかった内容に、再び眼を見開いた。




