1-2
こうしてワーグナー一家に使用人が一人増えた。
人買いの仲介人が目を付けた家だけあって、一家は土地の名士だった。
屋敷には、家長である老人とワーグナー夫妻、夫妻の息子二人の五人家族が暮らしている。
対して、住み込みで働く使用人は家宰のじいやと家事炊事をするメイドが二人、庭師兼雑用係の青年が一人。
そこにリリーも加わって、家族一人につき使用人が一人いる計算になる。
少女が来た翌日、もうじき十八歳になるメイドのマーガレットは、台所で、親の仇がごとくゴボウを睨んでいる新入りを見つけた。
首を捻った……ゴボウに何か恨みでもあるのだろうか?
事情を訊くと、リリーは口の中でごにょごにょと言い訳した。
「妖艶な魔性の女に、なる決意を、固めようかと……」
「……?」
気のいいマーガレットはそれ以上、深く訊かないことにした。
陽気がよくなると頭のネジが外れるひともいるのだ。まだ子どもなのに、かわいそうに。
「でも、あんた。運がよかったよ。拾われたのがこの家でさ。ここじゃ野良仕事もしなくていいし、使い捨てみたいに朝から晩まで働かされることもないからね」
マーガレットの隣で台所仕事を手伝いながら、そうなんだろうな、とリリーもぼんやり思った。
昨日の夜──
ゴボウはゴボウでも、ここまでの長旅で土や埃まみれになって土付きゴボウになっていたリリーは、とりあえず、汲み置きの水で身体を拭おうとした。
そこへマーガレットが現れて叱ったのだ。
勝手に水を使ったことを怒られたのかと思ったリリーは反射的に謝ったのだが……。
『あんた、何してるの。そんな冷たい水で。風邪ひいたらどうするの!』
そう怒鳴られてびっくりした。
マーガレットはリリーのために貴重な薪を使ってお湯を沸かしてくれた。
リリーの家では考えられない贅沢だった。
しかも、雇い主である家族ですらない、使用人のため。
(え? 何ここ、天国? おら、夢でも見てるのかなぁ)
けれど、一晩経っても、夢は醒めなかった。
少年専用の小間使いになったはずのリリーは、特に何も命令されることもなく、なんとはなしに他の使用人たちを手伝って野菜の皮むきをしたり屋敷の掃除をしたりしている。
「アモル……様、の部屋には入るなって言われたんだけど……」
「ああ。気にすることないよ。私たちもほとんど入ったことないから。貴重な魔導書を汚されたり魔術具を割られたりしたら困るって思ってるんじゃない?」
「──魔導書? 魔術具?」
自分でも驚くぐらい素っ頓狂な声が出た。
そういえば魔法使いの家に売られてきたんだった……。
「──って、ええ?! あの男の子も? お兄さんだけじゃなく? だって、あの子、まだおらと同い年……あ、でも、一人前の魔法使いとして認められたお祝いだって言ってた……かも」
その祝いの品が他ならぬ自分だ。
リリーは冷や汗をかいて青くなった。
「エヴィン様とアモル様だけじゃなく、大旦那のおじいさまもだわよ。まぁ、旦那様は生まれつき魔力とやらがなくて、わざわざ別の魔法使いのおうちから奥様を娶ったっていうわ──つまり、そういう家系なのよねぇ」
魔法使いのサラブレッドというやつか。
名馬と名馬を掛け合わせるあれか。あれなのか。
お鍋をかき回していたら思考自体もぐるぐるしてきた。なんだか目が回りそう。
「……あのぅ。そもそも魔法使いって一体何なんですか」
「えっ、ちょっと待って。やだ、魔法使いを知らない?」
「……なんとなく偉いひとってぐらいしか。うちの村にはいなかったし」
そっかぁ、そんな場所もあるんだよねぇ、とマーガレットは気の毒そうな顔をした。
なぜそんな顔をされるのか、リリーにはよくわからない。
マーガレットはキリッと姿勢を正した。
「いーい、リリーちゃん。この家に仕えるからにはよーく覚えときなさいな。魔法使いっていうのは──」
──ごくっ。
リリーは唾を飲み込んだ。
「──困ってるひとのことを、人智を超えた力で助けるスーパーマンなのよ!」
「…………はい?」
お鍋をかき回していたお玉がリリーの手から逃げてすっ飛んでいった。
☆☆
「アモル様、おかえりなさい! あの、ですね。ジャムの蓋が開かなくって……」
「……ジャム?」
その日、帰宅したアモルは差し出されたいちごジャムの小瓶を眺め回した。
どこからどう見ても何の変哲もないジャムである。
力をこめると、あっさり開いた。
「──開いたけど」
「あ、はい……」
「……?」
リリーはなぜか少し残念そうな顔をした。
なぜだろう。アモルは首を傾げた。
それからも、リリーは何かにつけてアモルにつきまとうようになった。
まるで主人の足元にまとわりついて遊んでもらいたがる子犬のようでもある。
「アモル様、アモル様! どこからか迷い猫が来て……」
──ミルクと浅皿を出してやった。
「ドアの立て付けが悪くて……!」
──油を差してやった。
「机のささくれが危なくって……!」
──やすりで研磨してやった。
「ほら、おまえも手出せ」
「え?」
「ささくれで怪我してんだろ」
リリーは目を丸くした。
どうしてバレたのだろう、という顔だ。
隠していた左手をおずおずと出してくる。
けっこう思い切りよくザックリ切っていて、アモルは眉をしかめた。
傷薬を塗って包帯を巻いてやる。
「ありがとう、ございます……」
リリーはしゅんと項垂れて、アモルは怪訝な顔をした。
(こいつ、何がしたいんだ……?)
アモルはだんだんイライラしてきた。
同じ年頃の女の子なのに、行動も意図もまったく読めない。
メイドのマーガレットにそれとなく訊いたら、「アモル様。女心は山のお天気のように移り変わる、複雑怪奇なものなんです」なんて諭された……ますますわけがわからない。
そんな日々がしばらく続いた。
アモルの心中を知らず、リリーはリリーで、もう何日も一人で悶々と考え続けていた。
知恵を振り絞って考えたジャムの蓋作戦も、子猫の餌やり作戦も、ドアや机の修繕作戦も、すべて空振りに終わってしまった。
結局、アモルの手間を増やしただけである。
それを思うとなんとも情けなくなってくる。
(うーん、いったいどうすれば……)
この日、リリーは本棚の拭き掃除をしようとした。
が、明らかに身長が足りない。
つま先立ちをして届く高さにも限度がある。
しばらくつま先立ちでぷるぷるした後、リリーはアモルの元に駆けていった。
「あの、アモル様……棚の上に届かなくて困ってるんです!」
「……」
帰宅して鞄を下ろしもしないうちに呼び止められ、アモルは渋々といった感じに本棚を眺め、リリーを見て、小さな手が握りしめている雑巾に目をやった。
リリーは気合い満々で、手が汚れるのも気に留めていない。
アモルは黙々とハシゴを出してやり──
リリーはちょっとがっかりした顔をした。
出してもらったハシゴに上り、しょんぼりと拭き掃除に取りかかった。
(ちっがーう! そうじゃなくて……。うーん。どうしたらいいんだろ。もっと困ってること……困ってること……)
「バカ、危ないっ!」
「え……」
ハシゴから受け身もとらないまま床に叩き付けられる寸前、アモルが滑り込んで少女を受け止めた。
そのまま二人で派手にすっ転んだ。
鞄の中身が散らばり、怪しげな手鏡や水晶玉、呪句を書き付けた木札やらが盛大にばらまかれる。
後頭部をもろにぶつけたアモルが呻いた。
「うぅ……痛ってー」
「わわわっ、アモル様、ごめんなさ……──」
リリーの手が水晶玉に一瞬触れた。
そのとき──
(な、何っ……?!)
水晶玉から不思議な光が零れ、雷光と見間違うような眩いきらめきに目がくらんだ。
本当に驚いたのはその後だった。
透明な硝子の中に見たこともない景色が映し出された。
数え切れないほどの痩せ細った人々、泣いている子ども、乾いてヒビ割れた土地、枯れ果てた作物……そして──
「……触るな!!」
アモルに強く突き飛ばされて、リリーは我に返った。
表情は強張り、心なしか少し青ざめている。
「ご、ごめんなさい! おら、決して触るつもりじゃ……ごめんなさい! ごめんなさい!」
「おまえ、こないだっから変だぞ! 僕の周りをちょろちょろちょこまかと……いったい何がしたいんだよ?!」
リリーは泣きそうになった。びくびくしながら答えた。
「……魔法を……」
「あぁ?!」
「……魔法を使わないかなーって……」
「………………はぁ?」
予想外の答えに、アモルは一瞬、毒気を抜かれてぽかんとした。
弱り果てたのはリリーである。
魔法使いは困ったひとを救うのだというマーガレットの言葉を真に受けて、困ったら何かにつけてアモルを頼っていたのだという経緯を説明したら、アモルは呆れたように頭を抱えた。
リリーはそんなアモルの様子にも気付かず、懇願の体になっている。
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……追い出さないで」
「……二度とするな」
がたがた震えている少女を見て、アモルはそれ以上、怒る気が失せた。
鞄の中身を拾い集めて、素っ気なく踵を返した。