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本当の笑顔

 扉を叩く音がした。

 ソーマ、と私を呼ぶ声がした。


「ソーマ、ソーマ。入れてくださらない?」


 驚いて扉を開けると、申し訳なさそうに眉を下げたセイラ様がいた。

「ごめんなさい。ニーベラルド様が“今夜も”っておっしゃるの。居させてもらっていいかしら?」

「それはかまいませんが……あの、セイラ様……」

「なあに?」

 傾げた首の上の瞳が不思議そうに私を見つめる。

 ――どういうことだろう。

 セイラ様は今、いつものようにニーベラルド様とその恋人に寝室を明け渡してきたはずだ。それなのに、いつものように涙を堪えている様子がない。

「……どうされたのですか?」

 曖昧もいいところの質問に、しかしセイラ様は訊き返したりはしなかった。

「本当に、どうしたのかしらね」

 肩から力を抜くように小さく息を吐きながら、セイラ様は言った。

「ニーベラルド様のことは、今もお慕いしています。寝室を出るように言われて悲しくもなりました。でも……なんでしょうね。今までほど辛くないんですよね」

 空を見つめるその瞳からは、なにも流れようとしていない。

 無理をするわけでもなく、なにかを隠すわけでもなく、セイラ様は言葉を探す。

「仕方ないというか……納得したというか……。ようやく、“受け入れられた”ってことなのかしらね」

 私の方を見て、寂しげに微笑んだ。

 求めていた、花が咲くような笑顔ではない。

 諦めたような、弱々しい微笑だった。

 それでも、力の抜けたその表情に、私はなんだか安心した。

 ニーベラルド様たちが帰ってくるまで止まらなかったあの涙は、様々なものを一緒に流していってくれたのだろう。


「……ワインをご用意いたしましょうか?」

 これまでずっと頼まれていたことを尋ねると、案の定、セイラ様は手を振って断った。

「いえ、ワインはいいわ。そうね……なにか甘い飲み物をいただけるかしら」

「かしこまりました」

 ようやくのセイラ様らしい注文に頬が緩む。

 現実から逃れるために飲んでいただけで、本来はワインの味も好きではないのだろう。なんとなく、そんな気がしていた。


 ミルクを温め、溶かしたチョコレートを混ぜ合わせる。

 二つのカップに注いで持って行き、一つをセイラ様の前に置いた。

「ご一緒しても?」

「もちろん」

 許可をいただき、向かいに座る。

 セイラ様はカップを両手で包み、そっと口をつけた。

「――美味しい」

 綻んだ顔がお世辞ではないことを知らせてくれる。

「ありがとうございます」と返すと、セイラ様が嬉しそうに笑った。


「やっと、笑いましたね」


 一瞬、なにを言われているのかわからなかった。それは私の台詞ではないのかと思った。

 しかしセイラ様は、微笑みながらこう言った。

「ソーマはずっと辛そうな顔をしていたから、それはそれで辛かったのですよ? わたしのせいだということはわかっていましたから」

「――――!」

 なんということだ。私も、同じだったのか――

「……申し訳ありません。嫌な想いをさせてしまっていたようで……」

 恐縮する私に、セイラ様が首を振る。

「いいえ。謝らなければいけないのは、わたしの方です。ずっとあんな顔をさせてしまって、ごめんなさい」

「いえ、もとはと言えば、ニーベラルド様を止められなかった私が悪いのです」

 そうだ。そもそもはそれが原因だ。そしてそれは謝っても許されることではない――

 思わず下を向いてしまった。

 責められてもなじられても仕方ない。私はそれだけのことをした。

 テーブルの下で拳を握る。

 手のひらに爪が食い込んだその瞬間――

 

「止められるわけないじゃありませんか。あなたは執事ですよ?」


 正面から聞こえてきた声は、温かかった。

 その声に、はっとして顔を上げると、セイラ様はただ優しく微笑んでいた。


「し、しかし……」

「あなたが悪いわけではありません。そして――ニーベラルド様が悪いわけでもありません」

 静かな声が胸に刺さる。心の中でニーベラルド様を責めていたことに気づかされた。

「ニーベラルド様は、想い合っている相手と一緒になろうとしただけです。あなたは、主人の気持ちを尊重しただけです。誰が悪かったわけでもありません。

 あえて言うなら……身分という壁が邪魔をする世の中、でしょうか。悪いのは」

 すべてを受け入れたような顔で、セイラ様が微笑む。

 ――なんという方だろう。

 自分が一番の被害者なのに。我々二人どころか、この屋敷にいるすべての人間を呪ってもおかしくないほどのことをされているのに。

 この方は、すべてを許してくださっている。

 私は……。


「ソーマ」


 涼やかな声が私を呼んだ。穏やかに笑うセイラ様がそこにいた。

「ありがとう。虹を見させてくれて」

 その言葉に胸がいっぱいになった。

 同時に、自分が情けなくなって頭を下げた。


 私は、なにもできなかった。

 笑わせるどころか、気を紛らすことすらできなかった。 

 偶然見つけた虹にすがることしかできなかった。


 それでも……そんな私でも、いつかこの方にふさわしい人間になれるだろうか。

 本当の恋人になれるだろうか。

 もしもその願いが叶うのなら、こんどこそセイラ様に捧げよう。

 誰よりも、幸せな物語を――



               <了>

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