四十三話『勇者、わたくし』~旅の目的~
「……天秤力、ですか?」
吸収力はその意味がわかるし、実際にルインを見ているラハットも納得出来る。彼女は新しいことを知り、そして受け入れる能力に長けている。しかし、天秤力なんて言葉は聞いたことがない。
ラハットは寒くなり、すぐにまた湯の中へと身体を沈めた。カイは「そう」と頷く。
「ルイン様は常に無色透明。自分の中に入ってくるものを、常にありのままの色で受け入れることが出来る。例えば、俺なんて真っ黒だから、どんな白いものが俺の中に入ってきても、それは灰色になってしまう。白じゃなくなる。しかし、それが当たり前なんだ。人というのは、生きていくとそいつ個人の色を持つ。考えや信条、好み、価値観。そいつの性格や体質に環境が合わさり、それは複雑に構成され、やがて色となる。だけど、ルイン様は違う」
カイは湯を掌で掬い、それを水面へと落とす。湯船の中の湯、掌の湯、そして落ちていく湯。そのどれも、全く同じお湯のはずなのに、まるで異なる色に映る。
「ルイン様は今でもずっと、無色透明なままでいる。受け取るもの、そのものの色を変えずに取り込むことが出来る。そう、まるで何も知らない子供のように」
「それが、ルイン様の吸収力ですね」
「そう。だから彼女には、不動の天秤力がある」
ここまでカイが言葉を積んでも、ラハットにはまだよくわからなかった。天秤。重さを量るための道具。彼女には何を『はかる』力があるというのだろうか。
「カカの村で俺達が魔物を倒した時、ルイン様が泣いていたのを覚えているかい?」
「はい。よく覚えています」
「どうして泣いていたと思う?」
カイは薄っすらと笑みを浮かべて、ラハットへと訊ねた。ラハットはあの時の光景を思い出す。崖の上で、こちらを向いて涙を流していたルイン。溢れ出るそれを、必死に手の甲で拭っていた。
「あの子供達のことを想って、もしくはみんなの無事に安心して、ですか?」
ラハットの言葉に、カイは唇を薄く伸ばす。
「質問に質問で返す時は、たいてい間違っているものだ。……違うよ。彼女が泣いていたのは、魔物達のことを想ってだ」
ラハットは驚き、言葉が出なかった。ナギ族とナミ族の未来を案じてではなかったのか。カイ達の無事を、勝利を喜んでのことではなかったのか。
カイは両腕を手すりにかけ、その腕に顎を乗せて遠い目で壁を見つめる。
「あの場でただ一人、あの子だけが、魔物のことを考えて涙を流していた。俺もルダも、そしてカカの村の彼らも、村の先行きと自分達の無事を思って安堵したはずだ。彼女だけなんだ。全てを俯瞰し、完全なる客観視であの場の正義をはかれたのは」
正義をはかる。だから天秤力。ラハットはようやく理解した。
なるほど、そういうことか。彼女は唯一、あの場で主観を持たずに正義の重さをはかった。そして気付いたのだ。あの魔物達には何の比もないことに。
「俺達は人間だ。ナミ族とナギ族のことを考え、魔物を狩るという選択肢を最善と判断した。ラハットちゃんだって、それが正しいと思ってこれまで振れなかった剣を振り切った。そして俺は、それが間違っていたとは今でも思っていない。なぜなら、俺は人間で、ホムに世話になり、あの家で子供達の無邪気な姿を見ていたからだ。俺は俺の主観で正しいと思ったことをした。そこに後悔はない」
「ですが、ルイン様は違った」
「ああ。彼女はそれが理解出来なかった。俺達と同じ景色を見たはずなのに、どうして魔物を狩らなければならないのかがわからなかった。だから、あの歓喜に沸く中、ただ一人、死んだ魔物に対して涙を流したんだ。そこに複雑な理由は存在しない。ただ可哀想だから。とても澄んだ理由だ」
ただ可哀想。それはきっと、大人の世界では『甘え』と片付けられてしまうのだろう。生きるためには仕方のないこと。それが自然の摂理だ。人間は大人になると、そうやってそこにある感情に蓋をして、物事を処理する。ラハットも最後は、そうして剣を振り下ろした。
だが、ラハットも心が痛んだ。
カイがラハットの顔を見て切なく微笑んだ。
「そう。気付いたかい? ラハットちゃんも、元はルイン様と同じ側の人間だ」
「私が同じ側の人間、ですか?」
「ああ。ラハットちゃんは魔物にとどめを刺す時、とても悲しい顔をしていた。とても悲しくて、痛くて、切ない顔。ああ、きっと心の中で謝っているんだろうなってそう思ったよ」
そう言うカイの顔こそ、とても悲しくて、痛くて、切なかった。
「俺は何とも思わなかった」
「……カイさん」
カイはラハットに身体を向けると、無理に笑ってみせる。
「俺はただ、次の魔物の攻撃パターンをいくつも予想して、こう来たらこう動かないとって考えて、ああ、そう言えば最近女抱いてないなって思ってさ」
カイは背中を大きく膨らませると、全ての杞憂を吐き出すように縮ませた。しかし、背中はただ丸くなるだけで破裂したりはしない。人間の心はそこまで便利には出来ていない。
「始めは俺だって心が痛んでいたさ。初めての時なんて、その日は一晩中吐き続けて、のどちんこが胃酸でやられて腫れあがったんだ。……ほら、前に言っただろ。オルデルス家で一端の使用人として認められるには、二十匹の中型を一人で倒さなければいけないって。あれは、こっちから中型を探して襲うんだ。勝つ、勝たないじゃないんだ。ここが耐えられるかどうかなんだ」
カイは左胸のあたりにぎゅっと爪を立てた。そして再び身体の向きを戻すと、ラハットと並んだ。ラハットが横目で見ると、カイの胸には赤い爪のあとが滲んでいる。
「でも、二十匹の中型を倒せたから、カイさんは今、こうしてオルデルス家の使用人として、ルイン様の護衛についているんですよね?」
「ああ。十二匹目くらいかな。その日に眠れるようになった。そして十五匹目に、飯が食えるようになった。十八匹目には戦いながら他のことを考えられるようになって、二十匹目には戦闘を楽しめるようになっていた。そして、そこに何の疑いも持たなくなってしまったんだ。俺は意味もなく、生き物を虐殺しているということに」
魔物のことを、カイは『生き物』と呼んだ。そこにラハットが違和感を覚えたことに、ラハットは違和感を覚えた。何も間違ってはいないのに。事実、魔物だって何の疑いもなく生き物なのに、だ。
「ルダは俺より何年も前からオルデルス家にいたのに、その二十匹がどうしても倒せなくて、正式な使用人になったのは俺よりもずっとあとだった。でも、今ではルダも迷いなく魔物を倒せる。一度その線を踏み越えると、もう戻れなくなるんだ。感情よりも、立場や状況、つまり理屈を優先するようになってしまう。そして、大人になるとそれが評価される。組織に属するとそれが讃えられる。だから人間は絶対にまた争う。俺は断言する。近い内に、人間が人間を殺し合う大きな争いが必ず起きる」
カイは湯を片手で掬うと、それをぎゅっと握り潰した。水が弾け、ラハットの顔へとかかる。しかし、ラハットは目を瞑らなかった。いや、閉じることが出来なかった。その事実をしっかりと留めておかなければいけないと、そう思った。
「だが、これからは、これまでの互いの財産や領地を奪い合うだけの争いではなく、きっと誰が正しくて、何が原因で起こっているのかすらわからない、錯綜した争いになるはずだ。勝った方が正義だなんてそんな馬鹿なことがあってはならない。だから、ルイン様の素質が必要になってくる」
「どちらが正しいかを見極めるために、ですか?」
カイは目を細める。
「……ああ。俺達は強くなる。俺達が付いた側が圧倒的に有利になるくらいに力を持つ。そして、ルイン様が正義を見極める。そうして俺達で世界を正しい方向へと導くんだ。そのために、この旅はとても重要な意味を持つ。俺達自身を強くすること。そして、ルイン様に世界を見せること」
「透明性を保つためには、何も見せない方がいいのでは?」
カイは首を横に振る。
「いや、それでは駄目だ。世界を知った上で、何者にも左右されない正義の天秤が必要なんだ。ルイン様なら、世界を見ても、知っても、きっと穢れない。ずっと無色透明な心を保つことが出来る。彼女なら、本当の正義を貫ける」
ラハットはカイの横顔をじっと見た。しっかりと未来を見据え、確固たる目的と信念の下に行動している。
自分に求められている役割、そして欠けている能力、全てを理解した上で、今、カイはここにいるのだ。
有り難い。
カイの存在はラハットにとって、感謝以外の何者でもなかった。カイがいなければ、きっとこの旅はラハットにとって、ただの御守でしかなかっただろう。
何も考えず、魔物に対する心の鎖を外し、世界を見て成長出来たらいい。それくらいの気持ちで臨んでいたに違いない。いや、現にそうだった。
しかし、カイのおかげでラハットは気付くことが出来た。
今、自分達がやっているのはただの護衛ではない。いつの日か、世界を守ることになるかもしれない、とても大事な旅なのだ。
勿論、もしかしたら本当に呪術師の予言通りに、魔王がいて、それをルインが勇者として倒すという旅になるかもしれない。もしかしたら、カイの予想が外れて、何も起こずに平穏が続くかもしれない。
それでも、この旅が意味のないものになるわけではない。万一に備えて、王はラハット達を送り出したのだ。
そしてラハットだけではない。ラハットがグシウムを出る一年前には、彼が志を持って旅立っている。そうなると、他にも、この世界のどこかでラハット達と同じように未来を見据えて行動している者がいても不思議ではない。
そのまだ見えぬ者達に、負けていられない。
静かに決意を燃やしているラハットの隣で、カイは大きな欠伸をした。いつもの、浮いてしまいそうなほどに軽いカイの顔に戻っている。
「ま、ラハットちゃんは仕方ないよ。騎士になって守る側になったんだから。どんな理由であれ、武器を持って掲げてしまった時点で、もう無色透明ではなくなるんだ。でも、それも間違ってはいない。個人の正義だって、とても大切だから」
それが集約されて起きるのが戦争だろう、とはさすがにラハットも言えなかった。いや、言わなくてもカイはわかっている。だからカイは、必ず人間は戦争を起こすと明言したのだ。
この何も起こっていない百年間が、異常であると。
そろそろ同じ風呂に入っているのにも飽きてきたので、ラハットとカイは別の風呂へと向かうことにした。
二人が出ると、ちょうど示し合せたように他の客が入ってきた。酒を飲んだのか、既に顔が真っ赤になっているお年寄りとすれ違う。そんな状態で湯の中に入って大丈夫なのかとラハットは心配になりながら外に出た。
外気が火照ったラハットの身体を冷ます。むしろ少し寒いと感じるくらいだ。ラハットは肩を抱いて身を小さくさせ、次にどこへ向かうか周囲を見渡す。
「他所ではあまり見ないお風呂に入ってみたいですね。あそこにとても大きな蒸し風呂がありますよ。とりあえず、」
突然、カイがラハットの口の前に人差し指を当てた。ラハットが口を噤むと、カイは眉間に皺を寄せ、視線を斜め上へと向ける。
「どうしました?」
ラハットがおそるおそる訊ねると、カイの表情はさらに険しいものとなる。そして突然、カイが走り出した。ラハットは慌ててあとを追う。
「カイさんっ」
カイは振り返らず、中央から東へと抜ける小路を見つけると、躊躇いなく入っていく。
「ルイン様の悲鳴が聞こえたっ」
「悲鳴ですか?」
ラハットには全く聞こえなかった。しかし、カイが聞こえたと言うなら間違いないのだろう。カイは脇目も振らず、全力で路地を駆け抜ける。
ラハットは嫌な予感に抱かれながら、カイの大きな背中を追いかけた。




