三十五話『勇者、わたくし』~カイの強さ~
ルインの声が谷底に届いた瞬間、魔物、人間が一斉に動き始める。カイは赤の魔物へと突っ込むと、反撃する魔物の攻撃を寸前で攻撃をかわした。攻撃をかわされた赤い魔物は、反射的にカイを追随する。
カイはそのまま走り出し、赤い魔物を引き寄せる。これで、上手く青い魔物から引き離すことが出来た。カイの後方では、ルダがじっと待っている。
一方、兵士達はカイの言いつけを守り、懐へは飛び込まずに青の魔物の攻撃を避けることに専念している。そして、隙をついて後方にいる兵士達が矢を放つ。
魔物の硬い身体に弾かれる矢がほとんどだったが、それでも十本に一本は魔物の皮膚を傷つける矢がある。その小さな傷も、積み重なればいつか大きなダメージとなっていくはずだ。
カイは兵士達の戦闘を確認すると、安心したようにその場に落ち着いた。この状況下で、カイは大きく背伸びをし、欠伸をする。
カイのその様子に、猛っていた赤い魔物が半歩、引き下がった。警戒したのだろう。
「お父様に」
突然、ルインが口を開いた。
「昔、一度、オルデルス家で誰が一番強いのかと訊いたことがありました。そしたらお父様は少し悩んでこう答えました。『本気でやれば、カイかもしれんな』と」
ラハットはまだ一度もカイの戦闘を見たことがなかった。これまでの旅路で偶然魔物と出会わなかったからだが、それ故、カイがどんな戦い方をするのかを全く知らない。
カイは一体、どう中型の魔物と戦うのだろうか。
ラハットがそう疑問に思った次の瞬間、カイが腕を大きく広げ、黒い外套がひらりと宙に浮いた。
カイがどこかに消えた。
そう思ったと同時に、赤い魔物の叫び声が谷に響き渡る。
何が起こった。
ラハットが前のめりになって目を凝らすと、魔物が片目を押さえてのたうち回っているのが見えた。そのすぐ傍に、身軽な服を着たカイの姿。その手には、細長い槍のようなもの。
いや、違う。あれはグレイブか。形状は槍のようだが、槍ほど長くはなく、穂先は剣状になっている。あれを、外套の中に仕込んでいたのか。
そこからのカイの動きは素早かった。闇雲に尻尾を振り回す魔物の攻撃を冷静にかわし、魔物の身体で最も軟い部分とされている脇腹に刃を突き刺す。
そのまま退くかと思うと、さらに魔物の懐へと入り込み、魔物の脇腹に刺さったままのグレイブを支点に身体を持ち上げ、思い切り顎へと蹴りを喰らわせた。そしてすぐに後退し、距離を開ける。
「……凄い」
ラハットは自然と声が漏れた。身体能力、状況判断、技術。騎士の中でもここまで戦闘能力のある者はいないだろう。いや、果たしてこれよりも強い人間が、この国の中に存在するのだろうか。
脇腹へのグレイブでの攻撃と、顎への蹴りを喰らった魔物は、じりじりと後ろへと下がり、カイとの間合いを探る。
これが中型の怖いところだ。
考えなしに突っ込んでくる小型とは違い、中型は相手の実力を量り、時に驚くほどの知能を見せることがある。
勝てる相手には畳みかけ、手強い相手には策を練る。さらに勝てないと判断した時には逃げることもあるという。
つまり、冷静になってからの中型の魔物は人間を相手にしているといっても過言ではない。それほどの頭脳を、彼らは持っている。
赤い魔物はじっとカイを見つめ、何かを考えるように口許の触手を蠢かせている。手負いとはいえ、魔物の身体能力は人間を遥かに凌駕する。カイも迂闊には近付けないのだろう。
ラハットはホム達に視線を移す。作戦は順調に進んでいるようで、魔物の身体には頼りのない矢が数本刺さっていて、兵士達にも目立った負傷者はいない。
逃げることのみに専念すれば、魔物の攻撃は比較的単調なものが多いので避けられる。
問題は一発でも喰らった場合だ。
一撃が重いので、まともに攻撃を受けると大きな手負いになる可能性は高い。そうなると、俊敏性が損なわれ、攻撃を避けるという行動にも支障をきたす。魔物にやられるのは、ほとんどがそのケースと言われている。つまり、一度でも攻撃を喰らうとそれが致命傷となるのだ。
しかし、これはいい流れなのではないか。ラハットが勝機を感じたその時、突然、ルインが「危ないっ」と叫んだ。
見ると、ホムの近くにいた兵士が倒れている。
一瞬の出来事で、ラハットはその瞬間を見ていなかった。しかし、青い魔物はとても攻撃出来るような距離にはいない。勿論、赤い魔物もカイの前から動いていない。
一体、何が起こったのか。おそらく全員が疑問に思った時、ある一人の兵士が、別の兵士の元に駆け寄り、その胸倉を掴んだ。
「お前、何やってんだっ。お前が矢を放ったのを俺は見たぞ」
「違う。わざとじゃない。誤射だっ」
「何が誤射だっ。魔物のいる方向じゃないだろ」
それを見たカイの形相が変わった。
「おいっ馬鹿っ。何をやってんだっ」
カイがそう叫んだ瞬間、青い魔物は倒れている兵士に向かって猛進した。魔物は兵士の上に馬乗りになり、兵士に向かって何度も腕を振り下ろす。
固まっていた兵士達が慌てて青い魔物に向かって突っ込むと、魔物はそれらをかわし、後方で弓を構えている兵士へと走り出した。
虚を突かれた兵士達は、一瞬反応が遅れる。
弓を構えていた兵士は弓を引くことも出来ずに、魔物の一撃を真正面から受け、後方へと吹き飛んだ。
ルインがラハットの服を強く掴み、目をぎゅっと閉じた。
これはまずい。隊形が崩れてしまった。すると、カイはラハットを見上げた。
「緊急事態だっ。ラハットちゃん、ルイン様をそこに置いて下りてくるんだ」
「私が……?」
「他に誰がいるんだ? あんたは騎士だろ。剣を持って早く下りてきてくれ。一刻を争う。おいっ、ホムちゃん」
カイは次に、ホムを呼ぶ。混乱状態にある中、ホムはカイの呼号に耳を向けた。
「作戦変更だ。俺がなんとか二匹を止めておくから、その間に負傷した兵士を連れて、全員で谷を上がれっ。そしてルイン様を連れて安全なところまで逃げるんだ。お前は命を懸けてでも、ルイン様を守れ。約束だっ」
ホムは状況を察したのか、強く頷くと、すぐさま周りの兵士達に指示を出し始めた。ラハットはルインの手を服からそっと剥がすと、ルインの顔をじっと見た。
「すみません。私も行かなければならなくなりました」
ルインは目を開けると、ラハットを見返した。
「わかっています。わたくしなら大丈夫ですので、どうか、皆さんをお助けください」
その目は、ただの我儘なお嬢様のものではなかった。
ルインは強い。きっと、今、心の底から震えているラハットよりもずっと。そしてその強いルインの言葉は、ラハットに僅かながらの勇気を与えた。
「ありがとうございます」
ラハットはルインに感謝の言葉を伝えると、勢いよく谷を下りた。
カイは赤い魔物に突っ込み、グレイブを使って無理矢理その巨体を吹き飛ばすと、そのまま青い魔物へと向かう。青い魔物は隊形が崩れてバラバラになった兵士を追いかけ、兵士達は、隙を見ながらなんとか同族の負傷者を抱えて必死に逃げている。
カイが青い魔物に追いつき、グレイブで斬りかかってその動きを止めた。カイは振り返ると、ラハットに向かって叫んだ。
「ラハットちゃんは、その赤いのを止めてくれっ」
カイに吹っ飛ばされた赤い魔物は、起き上がろうともがいている。
ラハットは柄を握り、剣を鞘から引き抜いた。
刀身に溜まっていた月光が、陽光の下に解き放たれる。相変わらず綺麗だ。ラハットは奥歯を噛みしめた。
自分でも思う。とても綺麗な剣だ。
足の指をきゅっと丸める。それでようやく、ラハットは自身の足の存在を確認した。手足の感覚がない。内蔵が捻られているように痛い。魔物までの距離が、とても遠くに感じられる。
行かなければ。
覚悟は決めているはずなのに、足が沼に嵌ってしまったかのように、一歩も前へと進まない。本当にこれは自身の足なのか。馬鹿げているが、ラハットは本気でそう疑った。それくらい、身体が言うことを聞かないのだ。
その時、ラハットの肩にそっと手が乗せられた。
ラハットが振り返ると、柔和な表情でラハットを見つめるルダの顔。
「……騎士様は、剣を汚したことがないのですね」
いつもの上ずった声ではなく、とても冷静で落ち着いたルダの声。それよりも、ラハットはルダがそれを知っていることに驚いた。
驚くラハットを見て、ルダは剣に視線を移す。
「昨日、騎士様の剣を拝見した時にわかりました。私は剣を見たのは初めてですが、刃物はたくさん見てきました。騎士様の剣は、まだ一度も血に染まっていない。そうではありませんか?」
ルダの真っすぐな瞳に、ラハットは吸い込まれそうになる。
そう。ラハットの剣はとても綺麗だ。
なぜなら、一度も魔物を斬ったことがないのだから。




