3: 怖いので近づかないで下さい
さっきまで無機質だった瞳が、あのときと同じ肉食獣の目に変わる。メガネの奥で揺らめいた。
咄嗟に顎の手を払いのけ、立ち上がる。
「しっ、失礼します!」
と叫んで応接室から飛び出した。
事務所を通り抜け、廊下に続く扉に手をかけた。
ガチッ
ドアが、開かない…。
そうか、まだ就業時間前。セキュリティの関係でむやみに鍵は開けられない…。
ん?じゃあなんで如月さんはコンビニに買いに行けたの……?
「いざというときのため、マスターキー持ってるんだよね、俺」
後ろから、口が悪い方の如月さんの声がした。
振り替えると、メガネを外してゆっくりとした動作で事務所の机の間を歩いてくる彼は、大型の猫科動物のような動きで魅せられる…。
「さすがにここまで全力で逃げられると、凹むなぁ?」
「に、逃げてません!帰るだけです!!」
段々分かってきた。あのメガネは切り替えるためのスイッチなんだ。かけていると無機質クールな仕事モード、外せば口が悪い大型猫科動物……猫科動物の行動が予測不能すぎて怖い。
壁沿いにジリジリと逃げる。
そこで突然、ガチャリと事務所のドアが廊下側から開いた。
「お、おはよー!やっぱり二人ともいたか」
のんきな声で入ってきたのは、神沢社長だった。
「神沢さん~!」
私には救世主のように見えた。
短い金髪の髪をツンツン立てて、少年のような無邪気さを持ったまま大人になったような神沢さんは、いつもTシャツにジーンズというラフな格好で、デザイナーというよりその辺のガテン系のあんちゃんに見える。
如月さんと並ぶと全く正反対の容姿で、これで仲は悪くないから不思議だ。
メガネを外してる如月さんを見て
「理人ー。なっちゃんを怖がらせたらダメだろ」
おどけるように言ったのは、私達の剣呑な空気を和らげようとしてだったのかもしれないが、逆効果だった。
「なっちゃんとか言うな!」
ムッとした顔で言い捨てる。
そ、そこまで怒る理由がわからない。
「わかった、わかった。日向さん、今日は休みでいいよ。コイツと一晩やりとりしたなら、精神的にかなり疲れてるでしょ?1人で帰れる?送ろうか?」
ものすごく今の私を理解してくれる人が現れて、安堵した。
「俺が送る」
そう言って如月さんが一歩近づいたところで、条件反射でビクリとしてしまった。
「理人、ダメ。初手からガッツきすぎ」
間にするりと神沢さんが入る。
「日向さん、ごめん。1人で帰って。俺はコイツに説教しとくから」
振り返ってニッコリ笑う神沢さんに、あわててお辞儀をしてその場を離れた。
通勤していくサラリーマンやOLの波に逆らうように駅に向かう。
いろんなことが一気に起こって頭の中はプチパニックだ。
下り電車に乗ったら、案の定スカスカですぐ座れた。朝日を浴びながらホッとため息をついたのもつかの間、重大なことに気付いた。
私ってば、これ朝帰りじゃん!
あー、まずい。お父さんやお母さんはともかく、かなちゃんに見つかると絶対うるさい。
時間を潰して家に帰ろうかとも思ったが、メイクも服もぐちゃぐちゃの状態の今、一刻も早く家に帰りたい。
かなちゃんが出勤してることを祈って帰路についた。
*****
「逃がさねぇよ?」
の宣言通り、逃げられなかった。
なぜなら、自分で気づいてなかったがワインをかなり飲んでいたらしく、まさに逃げようと椅子から立ち上がったら、グラリと倒れ……そうになったのを如月さんに抱き止められてしまった。
「クッ…、アンタ、チョロすぎ」
意外とガッシリした胸板にもたれかかっていることに気づいて身をよじるけど、力が入らない。飲んだ量を思えばいつもはここまで酔わないのに、今日はほぼ如月さんと一緒で、かなり緊張していたのも酔いが廻った理由だろう。
「帰り、ます」
「こんなんで帰せるかよ」
私がヨロヨロしてる隙に如月さんはさっさとお会計を済ませて、私を抱えるようにしてお店を出た。
「すいません、タクシー捕まえて下さい」
「顔真っ赤ですげー酔ってるのに、受け答えはしっかりしてんな」
苦笑いされた。酔って視界もぐるぐる廻る中、いつもより表情豊かな如月さんが、妙に色っぽく見える…。
酔いは廻ってるけど、気持ち悪くはなってない。これならちょっと休めば帰れる、と言ったら会社に連れてかれた。
事務所を通り抜け、奥にある応接室の座りごごちのいいソファーに座らされた。
「あの……なんで会社?」
「俺んちやホテル行くよりマシだろ」
「そんなとこ、行きません」
「ちょっと待ってろ」
そう言って如月さんは事務所から出て行った。
コンビニでも行ったのかな……とフワフワする頭で思った。そのままズルズルとソファーに横たわる。
あー、このソファーうちにも欲しいな…。クッションがほどよくて座面も広いし、デザインもいい。
事務所のデザインや調度品、什器は神沢さんがチョイスした、と聞いたことある。シンプルで機能性があって、ちょっと遊び心がある……っていうのが私好み…。あれ?如月さんのデザインもそんな感じだなぁ…。友人同士、好みも似るのかなぁ…。
「奈都は俺のデザイン好きか?」
「うん、すきぃ…。」
「他に好きなものはある?」
「うーん、なんだろー。甘いもの?」
「…女子は好きだな。………好きな……人はいるの?」
「うーん、かなちゃん?」
「かなちゃん?」
「そう…。私の…写真を……撮ってくれる………」
「………、……?」
んー、何か言ってるけど、頭の中フワフワしててもうよく分からない。
優しい落ち着いた低音で耳に心地いい声…。
声が気持ちいい……
*****
ガタン、と強く揺れたので起きた。
眩しい車内。外の景色を見れば、あと一駅で降りる駅だ。
あの気持ちいい声は、如月さんだったの……?
今さらになって、抱きしめられて寝ていたことを思い出して赤面してしまった。
家につく前に気付いてしまった。
玄関の前で腕を組んで仁王立ちしている人物がいることに…。
「なっちゃん!!」
昔は小さくてかわいかったのに、いつの間にか追い越された身長は今や如月さんくらいあるなぁ…。などと考えて近づいて顔を見たら、めちゃくちゃ怒ってる。
あー、ダメだこの顔。シスコン発動してる時の顔だ。
「どこ行ってたの!?スマホに何度かけても出ないし!出たと思ったら、知らない男だし!!」
「えっ……!」
出た……?電話に?
「あれは、誰なのかな?」
恐ろしい形相をして見下ろしてくる弟は、有無を言わさず私を玄関の中へと引きずりこんだ。




