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【短編】(その8)新月の上の兎〜A rabbit on the New Moon〜

【前回までのあらすじ】


自分で輸入ビジネスをする主人公の私。共通の知り合い(ワインの卸先)の紹介で渡部氏と会い、ドライバーの仕事を引き受けることになる。


渡部氏の会社で受付として働いている女性と食事をした帰り道、私はふと思い立って神宮外苑を散歩する。そこで奇妙な老婆に出会い、さらにはタキシードを着た(うさぎ)にまで出会うことになる。




まるでプレイボーイのマスコット・キャラクターではないか、と私は思った。




それは気品に溢れた上品な(うさぎ)だった。シルクハットも含めた身長は私よりも幾分低い。おそらく160センチほどだろう。




その白い毛足は長く、口の両脇から伸びる(ひげ)はきちんと手入れされているようだった。なにしろ髭は重要だからね、と言わんばかりだ。もしかしたら兎界――そんなものがあるのだろうか?――では髭の整い具合がその個人(個体)の印象を決めるのかもしれない。




赤い目はつぶらで、まつげはぴんと伸びて凛々しかった。その左手にはステッキがあり、その上には(そで)から顔を出した小さな手がちょこんと置かれている。パンツは綺麗にプレスされ、すっとしたラインが足元に向かって伸びいる。兎はエナメル地の革靴を履いていた。




私は光の中でそれだけを確認してしまうと、自分を落ち着けるために深呼吸をした。兎に気付かれないようにできるだけゆっくりと。吸い込んだ空気には微かに(わら)の匂いがした気がした。兎から発せられた匂いだろうか。それとも気のせいだろうか。




「どうかしましたか?」と兎は言った。




「いや」と私は戸惑って言った。




「こんな兎ははじめて見たという顔をしてらっしゃいますが」彼――その声は男性寄りの声だった――は私の心を読んだようにそう言った。




「そうですね。こんな兎ははじめて見ました」念のため私は敬語を使うことにした。




「でもはじめて見たものだからとい言って、それが信用ならざるものとは言い切れません」




「そうですね」と私は言った。それもそうだ。




「それで」と兎は言った。「ここに入るためにあなた様はここにいらっしゃいました」




「ここに入るために僕はここにいる」私はそう繰り返したが、どうも自信がなかった。なにせ私はただフラフラと夜の外苑を歩いていただけなのだから。




「人間という生き物は本当の望みや目的を知らないものです」と兎は言った。




「と言うと?」




「あなた方は深い部分で望んでいることに気付いていないのです。気付かないふりをしているだけかもしれません。そしてあなた様も皆様と同様、それに気付かれていない。しかしあなた様はこちらに来ることを望んでいたのです」




「でも僕はそれを自分では認知していなかった」と私は付け足した。




兎が肯くと小さく髭が揺れた。「あくまで可能性のひとつです」




その言い方には断定を避ける謙虚さが感じられた。彼はきっと謙虚なのだ。謙虚でジェントルな兎なのだ。自分が有能であるとわかっている人間や車があえてその力をひけらかしたりしないように、有能な兎もきっとそう振る舞うのだ。



「かくして」と兎は言った。「かくしてあなた様はここにいらっしゃった。そしてそれは我々の歓迎するところです」




「我々?」と私は言った。




「ところで例のものはお持ちですか?」兎は私の質問には答えずに話を進めた。




「例のもの?」と私が言うと、兎は鼻をヒクヒクさせてまた髭を揺らした。




「入口でもらったはずです」




「もしかしたらこのことですか?」私は手に持っていた人参のことを思い出して、それを胸のあたりまで上げた。あのしなびた人参だ。




兎は肯いた。そして少しだけ口を横に広げた。その表情は喜んでいるようにも見えた。しかし彼はそれを巧妙に隠そうとしているようだった。いつでも紳士的であることは長期的に見ればその者を正しい方向へと導いてくれる。そう信じているのかもしれない。




「それはここに入るためのものです」と彼は言った。「それを私に渡すのです」




「もし僕がここに入りたいのであれば」と私は言った。




「先ほどもお伝えしたとおり、あなた様はおそらくここに入ることを望んでおられます」




「なるほど」と言って私は少し考えてみたが、そもそも何を考えるべきなのかもわからなかったので、ひとまず彼の考えに従うことにした。そうでないと話が進まない。きっと世の中には渡されるべき人参と、それを受けとる兎がいるのだ。「でもこのなかにはなにがあるんですか?」




「いろいろです」と兎は言った。「ババロアで煮込んだ蛇の死骸やクレープ生地で包んで保存した馬の骨格、それにラクダの涙だってあります。とにかくいろいろです」




またラクダの涙か。今は私だって涙を流したい気持ちだった。




「でも、あなたはその前に、そこに行くことを決めなければいけません」




「行くことを決める?」




「つまり」と言って兎はステッキを持っていない方の手を口元にあてて咳払いをした。「生半可な気持ちで行かれてしまっては我々どもとしてもいささか迷惑だということです」




「行くのであれば本気でなければいけない、ということですか?」




「そうです。少なくとも気持ちの部分では、ということですが」




「気持ちの部分?」




「そうです。でも人間たちはそれが怖いのです。しかし怖いから決めなくていいとか、怖いから行かなくていいわけではないはずです」




「もし仮に僕がそこに行かないと言ったらどうなるんですか?」




「別にどうにもなりません。しかし、先ほどお伝えしたとおり、あなたはもうそこに行こうと決めているはずです。それはわかりますか?」




「わかる気はします」そう言っていると本当にわかる気がしてきた。




「それならまずはそれを私に渡すのです」




(つづく)

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